⑰ チップ差し替え大作戦

 オフ会から2日が経過した。スピードスターの当日分の配達を終え、事業所で待機していたアキの携帯にメッセージが届く。
『待たせたわね。今日の夕方、研究所にいらっしゃい。 ショーコ』
「ショーコさんからだ!」
「ん? ショーコさん? 誰だそれ?」
 同じく配達ノルマをこなして待機していたテツオが横からにゅっと携帯を覗き込んできた。
「わ! テツ先輩! びっくりするじゃないですか!」
「あ、悪い悪い。で、そのショーコさんとやらは誰なんだ?」
「えっと…」
 そういえば、テツオや山下には未来のこともショーコのことも伝えていなかった。余計な心配をかけさせたくないと黙っていたが、ここで変に隠すのも逆にいらぬ心配をかけさせることになりそうだと判断し、
「実は…」
 アキはこれまでの経緯をテツオに話した。ショーコの実験に付き合って未来へ行ったこと、AIに支配された未来、そこからの生還。そして、これからショーコの元で、未来を救うための作戦会議をすること。実験で未来へ行ったというくだりまでは「アニメの見過ぎか…」と言わんばかりの表情で、聞き流していたテツオだったが、未来で起きた出来事とそこからの生還するくだりになると、作り話にしては細かいところまで出来すぎているし、何よりアキの表情がマジだということに気づき、真剣な表情で話を聞いていた。奥のデスクにいる山下もデスクワークをこなしながらアキの話に耳を傾ける。
「…というわけでして」
 話している途中で徐々にテツオの表情が真剣な、険しいものへ変化するのを見て、ずっと黙っていたことに負い目を感じ出し、バツの悪い表情をするアキ。一通り話し終えると、
「アキ、お前! そんなヤバいことに巻き込まれていたのか!? なんでそんな大事なことを黙ってたんだ…!」
 心底心配しているといった表情で、テツオが声を上げる。
「…うん。ごめんね、先輩。心配かけさせちゃいけないと思って…」
「というか、その相馬ショーコって野郎、アキをそんな危ない目に合わせやがって。ちょっとガツンと言ってやらないとな…!」
「あ…。先輩、ショーコさんを責めないであげて。未来へ行ってみたいって興味本位で実験に参加した私も悪いし…。それに…」
「今は、3年後に訪れる人類の危機を知れて良かったって思ってる。何も知らないままだったら、今のこの生活、こうして先輩や山下さんと一緒に働く当たり前の日常がなくなるのを、きっと為す術もなく見ていることしか出来なかったと思うから…」
「アキ…」
 アキは、少し泣きそうな表情になりながら、俯く。
 その様子を見ていた山下が、奥のデスクからこちらへ、普段は絶対に見せないような険しい表情で近づいてきた。
「テツ。アキちゃんと一緒に、その相馬博士のところにいってあげてくれないか。アキちゃんの話が、もし本当の話なら、未来を救うなんて大役、一人で背負うには重すぎる…。配達はしばらくお休みだ」
「おう! 当たり前だ!」
 テツオは配達を休業しても大丈夫なのかなどと野暮なことは聞かなかった。それは山下の能力への全幅の信頼を寄せているからであったが、同時に、スピードスターの大事なメンバーであるアキが抱えている巨大な問題に比べれば、休業など些細な問題に過ぎないという判断からだ。
「そうと決まれば、早速いこう! アキ!」
「はい! 先輩!」
 二人は営業所の終了時間を待たず、事業所を飛び出した。

 量子力学研究所、研究室の地下入口前に立つ、テツオとアキ。
「いかにもって感じの場所だな…。アキ、お前、よくこんなところ一人で入ったな…」
「うん…。最初に配達で来たときは正直、怖かったかな…。あ、でもでも、ショーコさんはすごくいい人だから安心して。いきなり怒鳴りつけたりしないでくださいよ?」
「ああ、分かってる。そのショーコさんとやらも、使命があって、お前を未来へ送ったんだろうし。今は、その未来を救う作戦とやらに賭けるしかないだろう」
 自動ドアが開き、中へ進む二人。
 そこには、モニター前のキーボードを一心不乱に叩くショーコの姿があった。
 キーボードを叩きながら、ショーコは首だけをこちらに向けて、
「……! ようこそ、我が研究所へ! ちょっと来るの早かったわね。その辺の椅子に適当に掛けて」
 いつもの出迎え―仁王立ちから振り返り指差してビシッ―がなく、少し寂しげなアキ。が、ショーコは、それどころではないといった鬼気迫る表情でキーボードを高速で叩き続けていた。
「もうちょっとで完成するから…!」
 そう短く言い放つショーコ。二人はその様子をじっと見つめながら、ショーコに言われた通り、その辺の椅子に腰掛ける。
「高遠くーん! そっち今何%?」
「はい! 今87です!」
「了解。あと3分もあれば残りのデータも送信出来るから、そっちもそのまま継続で!」
「了解しました!」
 奥の部屋から助手の高遠の声だけが聞こえてくる。何やらあちらも忙しそうだ。
「アキ、こりゃ一体、どうなってるんだ?」
「…うーん。どういうことなんでしょうね…」
 目の前で慌ただしそうにキーボードを叩くショーコと、奥の部屋から何やら慌ただしい空気を出している高遠の様子を見守る二人。ショーコの宣言どおり、二人が到着してから3分が経過したところで、
 ――カタカタカタカタ…ッターン!
 小気味よいキーボードの打鍵音が研究室内に響き渡る。
「出来たわ! 高遠くーん、そっち焼き終わったら、データの欠損がないか、最終チェックお願いねー!」
「了解しました!」
 ひと仕事終えたといった様子のショーコは、デスクにおいてあるコーヒーに口をつける。
「よく来たわね。アキさん! お隣にいるのは…?」
「真島テツオだ。アキの同僚で、運び屋だ。あんたのことも含め、大体の話はアキから聞いてる。アキに協力するためにここへ来た」
「そう…。それは良かった。簡潔な自己紹介助かるわ」
 ショーコは、テツオのことを一瞥すると、時間がないのと言わんばかりに本題を切り出す。
「早速なんだけど、あなた達、運び屋に一仕事頼みたいのだけれど…」

 ショーコの作戦は、シンプルなものだった。アキが未来へ戻ってきた3日前、マクマードの研究所宛に送った、人工知能用の量子コンピュータチップを、今完成したばかりの〝とあるプログラムを仕込んだチップ〟に差し替えるというものだった。ショーコいわく、『相馬プログラム』と名付けられたそのチップを、元のチップがマクマード博士のもとに届く前に差し替えて欲しいということだった。
 この3日間、ショーコは高遠とともに徹夜でプログラムの書き換えに励んでいた。マクマードに連絡をして、修正版を送るまで待って欲しいと連絡するというシナリオも考えたが、アカデミー時代からの知り合いである、ジョン=マクマードという男の用心深さを知るショーコは、急な修正によって何か細工をされたのではと、こちらの意図に感づかれると踏んで、あえて連絡はせず、最初に送ったチップの差し替えをするという決断を下したのだった。
 幸いなことに、マクマードの人工脳科学研究所は、クロロブ地区の最北端に位置し、アクセルから飛空船で空輸する際の検閲の工程も手伝って、最低でも3日はかかる。が、逆にいうと3日なので、何のトラブルも無ければ、今日中には届いてしまう。
「そこで、足の速いアキさんの出番というわけ。先輩さんもいるのなら、なお心強いわ。早速で悪いんだけど、早急にクロロブへ向かってちょうだい! 高遠くん、最終チェック問題ない?」
「はい! 例の〝仕込み〟もきちんと暗号化されている確認がとれました!」
 そう返事する高遠は、『相馬プログラム』と呼ばれるチップを、手のひらサイズの強化ガラス性のケースに入れて、アキに手渡した。アキは、それを大事そうに左のポケットへとしまいこんだ。
「二人共頼んだわよ。この配達は、人類の未来を左右する重要な荷運び。|加速し《はしり》どころよ!」
「はい! 必ず届けます!」
「へっ、なんだかよくわからんが、人類の命運を掛けた荷運びたぁ、最高のシチュエーションじゃねぇか!」
 テツオのセリフに、なんだかアニメやゲームの主人公になった気分がして、アキもテンションが上がる。
 二人は、量子力学研究所を出た。時刻は17時を回るところであった。

⑯ マクマードの娘

「ヒナ、難しいことはわかんないけど、二人がなんとなくイイ感じだってことは分かるの! 天道アキ、今すぐアッシュくんから離れなさい!」
 突然のヒナコの登場に面食らったアキは、その鬼気迫る表情を前に、すぐさま席を離れて距離を置き、ちらりとアッシュの方を見る。アッシュは即座にヒナコの頭の中を覗いたのか、アキの方を見ると、ヒナコに気づかれないように、黙って首を横に振った。
 どうやら、ヒナコには、先程の会話内容は聞かれていなかった、あるいは聞かれていたが理解出来ていないらしい。ヒナコは、アキが飛び退いたことで空いた席に椅子取りゲームが如き勢いで腰掛け、アッシュに詰め寄る。
「アッシュくん! どういうこと! オフ会解散した後、大事な用事があるって言ってたのは、天道アキと会うことだったの!? ヒナよりも、天道アキの方が大事だっていうこと!?」
 詰め寄られるアッシュの様子を見て、アキは、勘違い女に絡まれてご愁傷様といった表情で、にししと笑みを浮かべてアッシュを見る。
 アキは、ハーレムモノのアニメやマンガでよくある修羅場光景を思い出し、こういう時、この後、男が取る行動は、
 1.土下座して「誤解なんだ!」と謝罪するも、罵られる
 2.首をかしげて「何のこと?」とすっとぼけて、殴られる
 この二択だろうなと、成り行きを見守る。どちらにしても、アッシュの辿る末路は惨めなものになるだろうと、踏んでいた。
 が、アッシュがとった行動は、そのいずれでもなく。
 ――っわ!
 アッシュは、なんと大声を出した。それもとてつもなく大きな声だった。拳銃の発砲音のような破裂音。距離を置いて見ていたアキもビクッとするくらいの音だ。店内中に響き渡るほどの破裂音に、2階席の他の客からの視線がアッシュとヒナコの元に一気に集まる。音の振動の中心にいたヒナコは、あまりの音の大きさにびっくりして、目を開いたまま放心状態になっている。そんなヒナコの耳元で、アッシュはぼそっと何かを呟いた。すると、ヒナコはさっきまでの勢いはどうしたのか、
「うん…。わかった…。ヒナ、今日はおとなしく帰るね…」
 そうポツリと呟き、フラフラと階段を降り、店から出ていった。
 一連の様子を見ていた他の客達は、音が鳴った瞬間、何が起きたのか理解出来ず混乱していたが、ヒナコがトボトボと退場するのを見届けるや、よくある痴情のもつれに決着がついただけかと興味を失い、次々と視線を外した。
 アキは目の前で起きた出来事にわけも分からず、アッシュに問う。
「今のは…、何…?」
「ああ、ごめんね。驚かせちゃって。荒っぽいのは嫌いなんだけど、あの場を収めるのには最適な方法だと思ってね。催眠術というと分かりやすいかな。今のは、『スタンアンドウィスパー』――って僕は呼んでるんだけど。人って、予想外の出来事にびっくりすると、心理的なスキが生まれるんだ。そこに聞こえるかどうかって音量の小声で暗示を入れると、脳の奥深くに刻まれて、その暗示に従ってくれるんだよ」
「やっぱり、アッシュって悪人な気がしてきた…」
 苦笑しながらアッシュを見るアキ。
「こんなの、誰でもやってるテクニックだよ。学校の生活指導教師、パワハラ上司、教習所の鬼教官。恐怖で人を従わせるのが得意な人間は誰でも使ってるテクニック。ただ、彼らのほとんどは、無意識にこういうことをやるから、質が悪かったりするんだけどね」

 とにかく、ヒナコの脅威は去った。アキは、この手の男女の修羅場のようなものを実際に経験したのは初めてで、どっと疲れてしまった。
「まあ、そういうわけで、アッシュ。あなたは3年後に、この世界を大きく変えてしまうから、|異能力《ちから》の使い方には気をつけてよね」
「わかった。ああ、でも未来を変えてしまった元凶って、その完全自立思考型AIってやつなんでしょ? それなら、そのAI―ニューロだっけ? それを停止してしまうのが一番手っ取り早いんじゃない? そうすれば、僕だって、その『詐欺事件』とやらを起こすこともないんだろうし…」
「それもそっか…。…ショーコさんに相談してみる」
「了解。じゃあ、今日のところはこれで。何かあったら協力するよ。君とは今後も何か深い縁がありそうだ。同じ|異能力者《ホルダー》だし」
 アッシュとアキは、何かあった時に連絡を取れるように、互いに電話番号を交換して、窓際のカウンター席を立った。
 二人が座っていた席のちょうど後ろに位置するテーブル席。テーブル席の仕切りのせいで二人からは死角になっていたその席に、胸元の大きな赤いリボン、薄茶色の髪に赤い小ぶりのリボンをつけた少女が座っていた。少女はブツブツ独り言をつぶやいている。
「はい…。対象は移動を開始。追跡を続行しますか? ………。……。…」
「…了解。調査結果を持って、直ちに帰還します…」
 その少女は、誰かに報告を済ませるとアキ達とタイミングをずらすためか、10分ほど待機して、席を立った。

「只今帰還しました。お父様」
 赤リボンの少女――レオナは、自身の生みの親である、ジョン=マクマードの待つ人工脳科学研究所に帰還した。同研究所は、フロンティア第10地区―クロロブ地区の最北端に位置する開発区にある。アクセル地区の開発区と違い、中心地のクロロブ|駅《ステーション》からバスで半日以上の距離の郊外であり、出資元であるノイマン財団が重要研究拠点として、特別に用意した土地であった。
 長い帰路を表情ひとつ変えずに、戻るレオナ。
「おお、帰ったか、我が娘よ。早速報告を頼む」
「はい、お父様…。日比谷アッシュの異能力は人の心を読む能力でした。また、異能力とは別に、人心掌握、人心操作術に長けており、来るべき特異点において、重要人物であるのは間違いありません。映像資料を…」
 そう言うと、レオナはショートボブの後ろ髪を両手でまくり上げ、マクマードにうなじを見せる。まくり上げた後頭部と首の継ぎ目付近に、外部出力用のケーブルをつなぐ端子口があった。マクマードは研究所のデスク下にあるパソコンから伸びているケーブルを、その端子口に差し込む。ケーブルを差し込まれたレオナは、目の色を失い、スリープ状態に入る。と同時に、デスク上のモニターには、先程までレオナが見聞きしてきた情景―シグナスでのオフ会で相談を解決するアッシュの様子、その後のアッシュとアキとの会話、アッシュがヒナコに対して行った『スタンアンドウィスパー』の様子、その一部始終が早回しで映し出された。映像が終わりまできたところで、マクマードは〝娘〟の後頭部に差し込まれたケーブルをゆっくりと引き抜く。ケーブルを引き抜かれるや、レオナはスリープ状態から復帰し、目の色を取り戻す。マクマードは正常状態に復帰した〝娘〟の様子を見届けると、
「今日は疲れたろう。映像は確認しておくから、お前はもう休みなさい」
 と、レオナに休息を指示する。
「はい…。お父様…」
 指示されたレオナは、研究室の壁際に配置されている人ひとりが入れるサイズのベッド型のカプセルに横になり、中からスイッチを押してカプセルを閉じ、充電状態へと移行した。
「ふむ…。確かにこの力は興味深い…。特異点後の『最適化計画』にもってこいの人物だ…日比谷アッシュ」
 ところどころ早送りをしながら、映像を確認するマクマードは、口角を釣り上げ、不気味な笑みを浮かべていた。
「あとは、相馬のとこの|量子コンピュータチップ《さいこうのずのう》が届くのを待つのみか…。案外早く事が進みそうだ…。クックック…」
不気味に笑う口元とは対照的に、その目は氷のように冷たい眼差しで、何か決意めいた鈍い光を帯びていた。

⑮ オフ会のその後で

「…あ、えっと…」
 アキは、いきなり声をかけられたことに驚いただけでなく、今まで見たことのないアッシュの冷たい表情を前に言葉を詰まらせてしまう。
 先程まで、次にアッシュに会うときは、一対一できちんと話が出来るようにしようと決意していたのに、今のアッシュを見ると、3年後にフロンティア中の人々を消滅させた張本人だというのも頷けてしまう、そんな冷たい表情をしていたから、未来での出来事を話すことすら躊躇してしまう。アッシュの放つプレッシャーに気圧されて、その場から逃げ出してアクセル行きのシップに飛び乗ろうかと考えた矢先、
「なーんてね。驚かせちゃったかい?」
 さっきまでとは別人のような朗らかな笑顔でそう言い放つアッシュ。
「最初にシグナス駅で会った時に、『未来で僕に会った』みたいなことを考えていたから、天道さん、最初は少し『電波ちゃん』なのかと思ったけど…」
 フフッと笑みを浮かべるアッシュ。冷たい表情のプレッシャーから解放されて安心するアキだったが、『電波ちゃん』という言い方に、今度は少しイラッとして、ムッとする。
「『電波ちゃん』なんて失礼ね…! こっちがどんな思いでアッシュに会いに来たのか知りもしないで…!」
 と、抗議の言葉を放つと同時に、アキのお腹から「くぅー」と小動物の鳴き声のような音がなる。
「あ…」
 思えば今日は朝から何も口にしていない。オフ会で甘いキャラメルラテを飲んだだけだ。
「まあ、立ち話もなんだし、どこか入ろうか。奢るよ」
 そう言って、アッシュはシップ発着場と逆方向、駅前の雑踏の中へ進んでいく。
 アキは、恥ずかしさで赤くなった顔を隠すように俯きながら、アッシュの後ろについていくことにした。
 その二人のさらに後ろからついていく影があった。
「天道アキ…め…。出会って初日で、アッシュくんと二人きりでデートなんて…。ヒナ…許せなーい…」

 二人は駅前のハンバーガーショップの2階、窓際のカウンター席で横並びに座った。窓から外を眺めると、沈みかけた夕日に照らされた、おびただしい数の人々の往来が見える。
 アキの前には、チーズバーガーとポテトのセットにストロベリーシェイク、アッシュの前には、ブラックコーヒーが置かれている。アッシュの「どうぞ」という身振りを受けて、アキは目の前のバーガーにかぶりつく。
「食べながらでいいから教えて欲しいんだけど、どうして僕の能力を知っているんだい?」
「ほへは(それは)…」
「ああ、知っての通り、僕は目の前の人間の心を読むことが出来るから、口に出さなくても大丈夫。|思ってくれる《・・・・・・》だけで、言いたいことが分かるから」
 そういえば未来でアッシュとやりとりした時もそうだったわねと、アキは思い出し、目の前の食事を摂りながら、アッシュに未来でのことを伝えようとする。
(えーっと、まず相馬博士という知り合いの研究者がいて…。その人の発明した時空転送装置を使って未来へ…、うーん、やっぱりチーズバーガーおいしいな。なんだかんだチーズのトッピングってシンプルなんだけど、最強よね…)
「あの…、天道さん?」
 目の前の食事に夢中になるアキを呼び戻すように一声かけるアッシュ。アキは、アッシュの方を見て、テヘペロと舌を出して、|思い直す《・・・・》。
(ごめんごめん。それで、3年後の未来に行ったんだけど、そこは人工知能によって人類が支配された世界で…、…あ、シェイクおいしい! いつもバニラで今日はなんとなく気分でストロベリーにしてみたけど、なかなかね。ただやっぱりシェイクってのは、ちょっと飲みにくいのが難点ね…)
「あのー…」
 アッシュは呆れ顔でアキを見て、
「やっぱり、話は先に食べ終わってからでいいです。早く食べて…」

 食事を終えたアキは、未来での出来事とアッシュに出会った経緯、未来のアッシュ本人の口から|異能力《ちから》について聞いたこと、そして、人工知能『ニューロ』と手を組んで起こした『詐欺事件』について、話をした。
「僕が自分の能力を天道さんに明かした…と…?」
「ええ…。未来で途方に暮れて落ち込んでる私に、僕も|異能力者《ホルダー》だから安心して…って」
「そうか…」
 信じられないといった表情で下を向き考え事をするアッシュ。数十秒ほど考えたあと、顔をあげると、
「僕の|異能力《ちから》は人に話した時点ですごく不利になるから、今までも誰にも話したことはないし、これからも人に話すつもりなんて毛頭なかったんだけどね…。まあ、とにかく、未来の僕は君になら伝えてもいいと、そう判断を下したのか。天道さん、君の言っていることは嘘でもなさそうだし」
「とにかく、あのときはありがとう。助かった。きっとアッシュに会って、電話を貸してもらえなかったら、私は今頃、未来で絶望したまま、野垂れ死にだったと思う…。ありがとう…」
「うーん。まあ、これからのことだから、何と返事していいものかわからないけど、とりあえず、どういたしまして」
 アッシュは、そう言って、少しぬるくなったコーヒーに口をつけた。
「そして、おそらく本題であろう『詐欺事件』の件なんだけど、一体どういうことなのか説明してくれない?」
「それが、私も詳しくは知らなくて…。ただ、未来のショーコさんが言うには、人類の破滅を導いた、3つの大きな過ちの1つだというほどの大事件だったみたい。なんたってフロンティアに住む80%の人間がいなくなったっていう話だから…」
「80%…!」
 アッシュは意味深な笑みを浮かべて、
「フフ…。心当たりが無いわけでもないな…。というか、そういうことになるのか…! それはすごい…」
 少し興奮気味に、そう付け加える。
「アッシュ…?」
「いやいや、ごめん。それってつまり、僕は3年後に、この世界の大多数の人間の心を動かすほどの影響力を持つってことだろ? それはすごいことだなと思って…」
「え…?」
 アキは、やっぱりこの人は悪人、あるいは何か精神的に欠陥がある人なのではないかと疑いの目を向ける。そんなアキの疑いの目に、アッシュはまっすぐに視線をぶつけて、
「…って、そんなこと考えるのやめてよ。僕は確かにちょっと人とは違った趣味趣向を持ってはいるけど、人類を滅ぼしたいなんて毛ほども思ってないし、それに…」
 アッシュは一呼吸おいて、
「気に入ってるんだ。この世界、フロンティアに住む人達のことを」
「…その言葉を聞けて、少し安心した…」
 アキは安堵の表情でアッシュを見つめる。アッシュもそれに応えるように穏やかな笑顔をアキに向ける。
 と、傍から見ると〝イイ感じ〟の空気をまとった二人。
「それで、天道さん、これからどうするの…?」
「うーん、どうすると言われても…。とりあえずアッシュと話をすることまでしか考えてなかったし、その先は…」
 とアキが言いかけたその時、
「その先、なんてないわよ!」
肩を並べて座る二人の間を引き裂く勢いでショッキングピンクのポーチが大声とともに振り下ろされる。
「天道アキ! ヒナに内緒でアッシュくんと二人きりでお喋りするなんて…。ヒナ、絶対許さないんだから…」
 二人はびっくりして振り返ると、そこには、顔を真赤にして、目に涙を浮かべた北条ヒナコの姿があった。

⑭ オフ会@シグナス駅南口

 シグナス駅から徒歩数分のスターボックスカフェの2階席でアッシュ主催のオフ会は開催された。日曜の昼過ぎということもあり、店内はそれなりに混雑していたが、ちょうど団体客が退店したタイミングだったこともあり、オフ会メンバー一行は、6人がけのテーブル席を確保することができた。テーブル席といっても、長めの低いテーブルに、一人がけのソファが3席ずつ向かい合って配置されている、ゆったりした〝リッチな〟席で、ゆっくり話すのにもってこいの快適空間だ。テーブルには、入店時に注文したドリンクが各々の席の前に置かれている。
 席順は長テーブルの中央にアッシュ、その右隣にヒナコ、左隣にハジメ。アッシュの向かい、真ん中の席にアキ、その左隣にユウキ、右隣にレオナが座った。アキは、何かあったときのために階段近くの角の席に座りたかったが、アッシュ側はヒナコがぴったりとアッシュの横をキープしていたので断念し、仕方なく向かい側の角に座ろうとしたが、ユウキの「キーボード置きたいんで、自分、角の席でもいいっスか?」との言葉に、仕方なく真ん中にずれることにした。
 各自席に着き終わったところで、主催のアッシュから挨拶が入る。
「今日は集まってくれてありがとうございます。一応今日のオフ会は、普段配信でやっている『お悩み相談室』をリアルの場でやってみようという趣旨の会なんですが、肩肘はらず気軽にお喋り出来たらなーくらいのゆるーい感じで行こうと思いますので、気楽にいきましょう。今日はよろしくお願いしますね」
 アッシュの挨拶に、それぞれよろしくお願いしますと返事をする。
「えーと、それでは、まずは一人ずつ簡単な自己紹介をしてもらいましょうか。みなさん、僕のことは配信で知っていると思うんですが、みなさん一人ひとりは互いに初対面だと思うので。あ、自己紹介と言っても気構えず、簡単な感じで大丈夫です。それでは、まずは…」
 と、アッシュが自己紹介のトップバッターを決めようとしていると、
「はーい♪ ヒナでーす。北条ヒナコでーす。見ての通り、かわいいだけが取り柄の女の子でーす。ヒナはー、前に一度アッシュくんと会ったことがありまーす♪ アッシュくん、ヒナの悩みを真面目に聞いてくれるから大好き! だからー、今日もつい参加しちゃいました♪」
 割り込むように自己紹介を終える|北条ヒナコ《ほうじょうひなこ》。自分のことを|かわいいだけが取り柄《・・・・・・・・・・》とか言い放つ強烈な自己紹介に一同は苦笑いをする。
「ヒナコさん、ありがとう。こういうのって一番手は緊張するので、率先してやってくれて助かりました。そしたら、このまま反時計回りで行きましょう。次、ユウキさんよろしくお願いします」
「はい。あ、えーと、自分、ユウキっていいます。友達とバンドやってて、キーボード担当っス。今日参加したのは、バンドメンバーとの人間関係の悩みを相談しようと思いまして…。あ、人間関係って言っても、そんな深刻な問題でもないんスけど…。まあ、とにかくよろしくっス。あ、一応こう見えて、女っス。よく男の子と間違われるんスよ…。へへ…」
 ユウキは、にへらと表情を緩め、愛想笑いをして、自己紹介を終える。次はアキの番だ。
「天道アキです。特技は走ることです。足の速さには自信あって、アクセル地区で『運び屋』のバイトやってます。あと、甘いものが好きです。アッシュのことは|前から知っていた《・・・・・・・・》んですけど、実は配信は見たことなくて…。今日はアッシュと直接会って話をしたいなと思って参加しました」
 アキは、未来での出来事を話そうかと思ったが、初対面の相手への自己紹介で未来に行ってきましたなんて話をしたら、確実に頭おかしい人だと思われるなと、あえて伏せて無難に仕上げた。多人数を前に話をするのが、あまり得意ではないアキは、自己紹介の緊張から解き放たれ、ほっと一息、目の前のキャラメルラテに口をつけた。スティックシュガーとはちみつのトッピング入りだ。
「あれー? アキちゃん、アッシュくんのこと、『アッシュ』って呼び捨てにするなんて、ヒナ、そういう抜け駆け良くないと思いまーす♪」
 ヒナコは首をかしげながら、くりっとした目でアキに抗議の視線を向ける。顔はニコニコしているが、目の奥は笑っていない。カフェに来るまでのヒナコの態度から、なんとなく察していたが、ヒナコはアッシュ自身を目当てにオフ会に参加しているようで、さっきの自己紹介で、アッシュのことを呼び捨てにしたのが気に食わない様子だ。
「えっと、ヒナコさん、ごめんなさい。つい…」
「つい…って、アキちゃん、アッシュくんと、いったいどういう関係なのー? ヒナ、気になるー♪」
 実に面倒くさい勘違いをされて、少しうんざりするアキ。この北条ヒナコという女、苦手だ。未来のことを話すわけにはいかないし、どうしたものかと困っていると、
「まあまあ、ヒナコさん。落ち着いて。僕はアキさんとは今日が初対面だよ。アキさんは|僕に会ったことがある《・・・・・・・・・・》ようだけど…。あと、呼び方は呼び捨てでも何でも、僕は気にしないよ」
 助け舟を出してくれるアッシュ。
(ん、|会ったことがある《・・・・・・・・》なんて、私言ってないぞ…って、ああ…、心を読んだのか…)
「えー、なになに? それって、つまり、もしかして、ストーカーってやつ? アッシュくんに一方的に会ったことがあるって、そういうことでしょー?」
 が、ヒナコの|口撃《・・》は止まない。ストーカー呼ばわりされたアキは、少しカチンと来て、むっとした表情でヒナコを睨む。
「まあまあ、ちょっと落ち着こう。ヒナコさんも、僕のこと呼び捨てにしていいから」
「え、本当!? じゃあ、ヒナ、アッシュくんのこと、アッシュって呼んじゃうー♪ ありがとう、アッシュ♪」
 アッシュの提案に気をよくしたヒナコは、アキの睨みなど一切気にせず、アッシュを呼び捨てに出来るという、アキと同じ立場に並んだという事実だけで満足した様子だ。
「そしたら、仕切り直しで、自己紹介の続き、やりましょうか」
 アッシュは、アキの隣に座る赤いリボンの少女へと視線を向ける。
「…私? 名前はレオナ…」
 …。
 ……。
 ………。
「って、え!? そんだけっスか!?」
 思わずツッコミを入れるユウキ。
「…何か問題でも?」
「いや、問題っつーワケでもないんスけど、普段何やってるとか、なんでこの会に参加したのかとか、そういうのないんスか?」
「ああ、そういうこと…。普段何をしているのかは言えない…。参加した目的は、日比谷アッシュの生態調査」
 これまた、ヒナコの逆鱗をギリギリかすめる危うい発言をするレオナ。
「レオナさん…でしたっけ? 生態調査というのは一体どういうことですかー? ヒナ、知りたいなー♪」
 ほら、やっぱり。面倒なことになる。というか、この北条ヒナコという女がいると、話が面倒な方向にしか進まない気がする。アキはいよいようんざりしてきた。
(未来では人工知能による人間の支配という大変なことが起こっていて、そもそも、その阻止のためにアッシュに会いに来たというのに…)
「ほらほら、ヒナちゃん。まだ自己紹介終わってないし、とりあえず今は噛み付くのは、やめとこう、ね?」
「ヒナ…ちゃん…!!!」
 なだめるように発したアッシュの言葉の中で、『ちゃん付け』にされたことにびっくりしたヒナコは、そのクリクリの目をアッシュに向けて、ぱちくりさせていた。
「うん、まだ、田中さんの自己紹介終わってないから、今はやめておこう? |ヒナちゃん《・・・・・》」
 追撃するように、『ヒナちゃん』を強調するアッシュ。気がつけば、口調も恋人のように馴れ馴れしいものになっている。
「え…あ…、はい…」
 『ちゃん付け』の衝撃で、顔を赤らめてぼーっとするヒナコ。
(おいおい、さっきまでの『ヒナはー』ってキャラはどうしたよ?)
 と、心の中でツッコミを入れるアキ。左隣のユウキを見ると、同じようなツッコミを脳内で入れているのだろうか、アキと同じように呆れ顔をしている。
「あ、あの、僕の番ってことでよろしいでしょうか?」
 すっかり蚊帳の外になっていた、気弱そうな男が口を開く。
「田中ハジメといいます。えっと、こ、高校生です。その、今回参加したのは、学校でイジメというか、き、厳しい先輩がいまして…。どうしたものかと…。まあ、そんな感じです。よろしく…お願いします!」
 メンバー全員の自己紹介が終わった。北条ヒナコのせいで、場がかき乱されたが、かえってそれが他のメンバーの緊張を解きほぐし、話しやすい空気を作り出していた。
「それでは、誰からでも構わないんですが、相談を受けていきましょうか」

 それから、ユウキ、田中、ヒナコの順にお悩み相談が始まり、アッシュは、相手の話を親身になって聞き、時折言い換えてあげることで、相手に気づきを与えながら、問題点を明らかにしていった。他のメンバーの発言もうまく取り入れながら、より良い解決策を出していく様は、まさにファシリテーターといった感じであった。
 3名の問題解決が済んだところで、結構な時間が過ぎ、そろそろお開きにしましょうという流れになり、一行はカフェを出て、シグナス駅へと向かう。

 シグナス駅で一行は解散となり、アッシュ以外のメンバーはシップ発着場へと向かい、アッシュはシグナスの人混みの中へと消えていった。
 アキは、結局、未来での話を切り出すことも出来ず、アッシュとじっくり話をすることもできなかった。ただ、お悩み相談を受けているときのアッシュの問題解決手法、会話手法などを見る限り、人心を誘導する、大衆を扇動するというのも可能なのではないかということは、なんとなくわかった。
 次は複数人じゃなくて、一対一で話をしようと心に決めて、アクセル行きのシップ発着場へ向かおうとすると、誰かに肩を叩かれた。ビクッとして振り返ると、
「天道アキさん、あなたはなぜ僕が心を読めることを知ってるんです?」
 そこには、こちらを貫くような冷たい視線で見つめるアッシュの姿があった。

⑬ 『アッシュのお悩み相談室』

 ショーコへの報告を終えて、自宅に帰ったアキは、夕飯とお風呂を手早く済ませて、自室のベッドで寝転がり、スマートフォンをいじっていた。アッシュの情報を集めるとは言ったものの、手がかりらしきものは一切ないので、
「日比谷アッシュ…っと」
 インターネットの検索エンジンに|そう《・・》入力すると、検索結果には、
『アッシュのお悩み相談室』
 そう表示されていた。
「まさか…」
 とりあえず検索してみるかという軽い気持ちで入力したにも関わらず、どうにもそれっぽいものを一発で引き当ててしまい、少し驚くアキ。
 そのページは、ユーザーが不特定多数の閲覧者に向けて生配信を行えるネットサービス『|Tmicas《ツミキャス》』と呼ばれるサイト内のユーザーチャンネルの一つであった。チャンネルのトップページには、今まで、配信内で受けた相談内容とそれに対する回答の一覧が明記されており、その数、軽く100件は超えているだろうか、スマホでスクロールするも、一向に最下部まで辿りつけない。
 アキは、スクロールしていく中で、いくつかの『相談と回答』に目を通す。

・「好きな人に彼氏がいるのですが、どうしたら良いでしょうか」
→想いの丈をぶつけて、様子見。慎重に彼女のモードに合わせましょう。

・「ゲイなのですが、男好きな自分が嫌です。普通に結婚して家庭を持ちたいです」
→ゲイを隠さず、ゲイのコミュニティに入ると良い。男同士で結婚して養子をもらうのもアリ。

・「人に優しくしていたが、良いように利用されてることに気づきバカバカしくなった」
→人に利用されている自分に気付けた結果、なんのために優しくするのかをフラットに考えられるようになったという意味で、一歩成長しただけのことです。

・「寝つきが悪いんだが…」
→ホットミルクおすすめ。あとは、パソコンつけっぱなし、放送ながしっぱなしなど、『ながら睡眠』もおすすめ。

・「不良の先輩に脅されてます。どうしましょう」
→こいつからは金を取れないという印象を与えて、諦めてもらう作戦。

・「生きる目的って何?」
→「何」ではなく、「どう」を大事に。それを日々実践。

「なんか色々な相談受けてる…」
 普段、生配信などに興味のなかったアキであったが、多種多様な相談内容とそれに対する真摯な回答を見て、単純に配信内容に興味が湧いてきたし、アッシュという人間にますます興味が湧いてきた。
「どうにかして連絡をとれないかな…。あっ…」
 アキは、『相談と回答』のページをスクロールする手を止め、連絡先を探すために、ユーザー情報のページにアクセスしてみると、

 ■ オフ会のお知らせ
 ・日時:5月7日(日)13時~
 ・場所:シグナス駅南口→駅前のカフェ
 ・定員:5名(残りの枠、あと1名!)
 ・参加費:各自の飲み物代
 ・参加希望者は以下のメールアドレスまで
 soudan.bros_ash@…

 なんと、このチャンネルのオフ会を行うらしい。しかも、なんと明日開催で、さらに定員5名の横には『残りの枠、あと1名!』の文字。おまけに、明日はスピードスターのバイトもお休みだ。参加してくださいと言わんばかりのナイスタイミングな状況に、アキは慌てて参加メールを送った。

 件名:オフ会参加希望
 本文:はじめまして。天道アキといいます。アッシュさんの配信いつも見てます。急ですが、明日のオフ会に参加したいのですが、大丈夫でしょうか。よろしくお願いします。

 普段配信など見てないし、そもそもチャンネルページを覗いたのすら初めてだったが、正直に書いて断られでもしたら、せっかくのこのナイスタイミングを逃しかねないので、とりあえずいつも見ている|体《てい》で、メール本文をテンプレっぽく打ち込み、送信する。
 程なくして、返信が返ってきた。

 件名:参加希望承りました
 本文:はじめまして、天道さん。ちょうど残り1名だったので、大丈夫ですよ。明日お会い出来るのを楽しみしています。

 これまたテンプレのような返事が返ってきて、アキはアッシュと思しき人のオフ会に参加することとなった。もし、日比谷アッシュ本人とは全然違う同じ名前の別人だったり、ヤバい事件に巻き込まれたらどうしようという不安が一瞬頭の中によぎって、躊躇しそうになったが、
「ま、そのときは、|加速して《はしって》逃げればいっか」
 足の速さには圧倒的な自信があるし、未来で体験した〝ヤバさ〟に比べれば大したことないかと思い直し、参加することにした。

 シグナス|駅《ステーション》は、アキの住んでいるアクセル地区の西に位置するシグナス地区の『ステーション』である。フロンティアには全部で15の地区が存在し、各地区にはその地区名と同名の『ステーション』と呼ばれる地区どうしを接続する駅が存在する。駅といっても、電車や鉄道の類の駅ではない。そもそも、フロンティアの各地区は、それぞれ独立した浮遊島となっていて、人々はステーションから発着する『シップ』と呼ばれる飛空船で各地区間を空路で移動している。シップには『ジュエル』と呼ばれる特殊鉱石が積載されており、ジュエルを燃料にすることで、シップは飛空することが出来る。ジュエルは、フロンティア各地の地中に埋まっており、一度燃料として完全に炭化してしまったジュエルは、土の中に返すことで、一定の年月をかけ、元の鉱石に戻る。
 ジュエルの出土量と回復のスピードは各地区で差があり、ジュエルの出土量が多い――つまりは〝よく採れる〟地区は、『アーバンエリア』と呼ばれ、フロンティアの中心部に固まって位置している。第8地区から第15地区がそれにあたる。一方で、第1地区から第7地区は、ジュエルの出土量は少ないが、〝回復力の強い〟土壌を持ち、それらは、アーバン(=都会)の反対の意味で、『ルーラルエリア』と呼ばれている。ジュエルが〝よく採れる〟アーバンエリアは、ジュエルを消費することで発展し、消費し終えたジュエルを〝回復力が強い〟ルーラルエリアの土壌で寝かせて、その力を回復させることで、バランスをとっている。
 アキの住む第11地区のアクセル地区や、これからアキが向かう第8地区のシグナス地区は、アーバンエリア内にあり、アーバンエリアの各地区はそれぞれ独立して浮遊しているとはいえ、かなり密集していて距離が近い。高い建物からなら、隣の地区が見えるくらいには近い。また、アーバンエリア内は、シップの往来頻度も高く、乗船料も安いため、移動する敷居も低く、ちょっと隣街まで遊びに行く感覚で行けてしまう。

 一晩明けて。
「さて、シグナス行きは…と」
 商業区の端っこにあるアクセルのステーションで、乗るべき船を探すアキ。ステーションには電光掲示板が設置されており、シップの発着の時刻と行き先が表示されている。発着場には、シップの昇降口に操縦士が立っており、目的地行きの船に乗る際に、操縦士に対して金額を支払うシステムになっている。アクセル地区の土地柄から、シップのデザインがアニメキャラ一色の広告仕様になっており、アキは、それらを見ているだけでテンションが上がってくる。
(ん~! 最高ね…!)
 いくつか停まっているシップに目移りしていると、
「あ、シグナス行きだ! お願いします!」
 シグナス行きのシップを見つけ、操縦士に運賃の180クレジットを支払い、乗り込む。シップの中は、300人は余裕で収容出来るほど広く、客室の両サイドに配置された座席に座ることが出来る。お昼過ぎということもあり、割と空いていて、席も選び放題だったので、アキは入口から比較的近い席に座ることにした。
「シグナス行き。シグナス行き、出航します。出航時の揺れにご注意ください」
 船内アナウンスが流れ、シップが出航した。

 船に揺られながら、アッシュに会ったら何を話そうかと考えるアキ。
(いきなり、未来で助けてもらったお礼を言いたくてとか言い出したら、頭おかしい人とか思われちゃいそうだし…。3年後に大規模な『詐欺』を働いて、フロンティア中の人を消しちゃうって話も、そもそも真実なのかどうかもわからないし。向こうからしたら初めてあった人にそんなこと言われても、何のことかさっぱりだろうし…。うーん…)
 どうしたものかと、腕組をして考え事をしていたら、船の揺れも手伝ってか、眠気が襲ってきて、ウトウトし始める。
(あ…、でも、アッシュは心が読めるから…、心を読んでもらえば…、ちゃんと…理解してくれる…か…)
 アッシュの異能力を思い出し、まあ会えば何とかなるだろうと安心したところで、アキは眠りについた。

「…グナス駅。シグナス駅に到着しました。ご乗船ありがとうございました」
 ウトウトし始めてから、15分ほど過ぎた時、船内に到着のアナウンスが耳に入ってきて目をさますアキ。シップはシグナス駅の発着場に到着し、乗客がぞろぞろと降りていく。ある程度の乗客が降り終わった後、アキも座席を立ち、シップから降りた。
 シグナス駅を出ると、人でごった返していた。
「ふぁー、よく寝た…!」
(にしても、相変わらずの人混み…。久々にシグナスへ来たけど、アクセルと違って、みんなどこか暗い顔してるから、この人混みは、どうにもなれないなぁ…)
 アキは、そんなことを考えつつ、オフ会集合場所の南口へと向かう。南口のゲートをくぐると、そこには見覚えのある顔があった。キレイな銀髪の癖っ毛に、ポロシャツにハーフパンツ。
(間違いない…! アッシュだ!)
 まずは第一関門である『本人かどうか』のラインをクリアし、ほっとすると同時に少し興奮気味のアキ。気持ちを落ち着けて、ゆっくりとアッシュの元へ近づき、恐る恐る声をかける。
「あのぅ…、アッシュさんですか?」
「はい。こんにちわ。えっと、あなたは…?」
「あ、えっと、はじめまして…。昨日、メールでオフ会に参加表明いたしました、天道アキと申します…」
 こっちは知っているが、向こうは初対面という気まずい関係で、思わずかしこまった挨拶をしてしまうアキ。
 アッシュはアキの目をじっと見て、少し沈黙し、
「ああ、昨日の! ようこそ来てくださいました」
 と、アキに合わせるようにかしこまった返事でアキを歓迎する。
「他の参加者もそろそろ来ると思うので、一緒にもう少し待ってもらえますか?」
「はい…」
 どうやら、少し早く着いてしまったアキは、今のうちに本題を切り出そうかとも思ったが、開始前にオフ会をぶち壊してしまっては、他の4人の参加者に申し訳ないと思い、アッシュの言葉に従って、一緒に待つことにした。
(こちらの思考が読まれてるとしたら、どちらにしてもアッシュには筒抜けなんだろうけど…)
 そんなことを考えながら、待っていると、人混みの中から、数人こちらへと向かってくる。
 一人目は、淡いピンク色のフリフリしたワンピースに、ショッキングピンクの手提げポーチ、うっすら茶髪のロングヘアにピンクのリボンをつけた、メルヘンチックな女性。
「アッシュくーん? ヒナ、また来ちゃった♪」
「ああ、お久しぶりです。ヒナコさん」
 どうやら、ヒナコという名前らしい。ぶりっ子を絵に描いたような仕草のヒナコを見て、アキは、どうにも合わなそうな相手だと思いつつ、軽く会釈する。
 二人目は、こげ茶色の短髪に、メガネをかけた男性。赤いネクタイに、どこかの高校の制服のようなセミフォーマルな格好をしている。
「あ、あ、あの、ど、ども、田中ハジメといいます。今日はよろしくお願いします!」
「ああ、田中さん。そんな緊張しなくても大丈夫ですよ。この前の配信ではどうも。こちらこそよろしくお願いしますね」
 三人目は、金髪に垂れ目、ヘッドフォンにリストバンド、七分丈のTシャツをだらんと肩から着崩して、ショートパンツ姿の女の子?だろうか。バンドでもやっているのか、キーボードを持ったままこちらに近づいてきて、にへらと笑う。
「ああ、アッシュさんっスか! やっと会えましたね! 本当、自分、ずっと会いたかったんスよ。ユウキです」
「キーボード抱えてるから、見た瞬間にユウキさんだとわかりました。僕も会いたかったです」
 そして、四人目。白のフリルの入ったシャツに、ワインレッドのロングスカート、胸元には大きな赤いリボン。薄茶色の髪にも赤い小ぶりのリボンをつけている。瞳は青く透き通っていて、まるで人形のような女性。
「レオナ…。よろしく…」
「レオナさんですね。よろしくお願いします」
 参加者全員が揃ったところで、アッシュから一言。
「皆さん揃ったことですし、とりあえず、会場のカフェに移動しましょうか」
 そう言うと、アッシュは全員に満遍なく気を回しながら、目的地のカフェまで先導を始めた。
 アキは、よくよく考えるとオフ会なるものに参加したのは初めての経験で、アッシュ以外とは完全に初対面という微妙な空気感に若干の居心地の悪さを感じながら、アッシュに導かれるまま、トボトボと後ろをついていった。

⑫ ショーコへの報告

 アキが量子力学研究所の地下研究室の自動ドアをくぐると、無数のモニター群を前にショーコが仁王立ちで背を向けて立っていた。そして、いつものように振り返り、ビシっと指差して一言。
「ようこそ、我が研究所へ! アキさん、あなたの到着を待ちわびていたわ…!」
「あのぅ、ショーコさん。毎回思うんですけど、それ、やる必要あります…?」
 おなじみの出迎えに苦笑いのアキ。
「何を言い出すかと思ったら、そんなこと? やる必要があるとかないとか、そういう次元の話じゃないの。こういうのは。ご飯を食べるときのいただきますとか、剣術の試合前後に互いに一礼をするとか、一種の礼儀作法みたいなものよ」
「礼儀作法って割には、なかなかに上から目線な印象を受けますけど…」
 アキは、ジト目でショーコを見つめる。
「んっん! まあ、冗談はさておき、早速本題に入りましょうか。さ、座って」
 ショーコは軽く咳払いをして、モニター群の前に無造作に置かれた椅子に腰掛けるよう、アキに促した。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 アキは、パーカーのポケットから今朝書いてきたメモ書きを取り出し、未来での出来事について話を始めた。
「まずは、未来のショーコさんに例の質問をしてきました」
 ――『箱の中身は生きているか』
 ショーコが未来へ行くアキに課した課題であり、結果的にアキを『奴ら』から逃がすための手段であった質問。
「質問をした結果、ショーコさんの警告した通り、未来で出会った|最初の《・・・》ショーコさんからは、『わからない』という返事が返ってきて、箱の中身を確かめると言って、中身を開けると…」
「あー! ダメよ、それ以上は! あー!あー!」
 ショーコは、アキの言葉にかぶせるように、わーわーと喚き散らす。その様子はまるで、続きが気になるアニメのネタバレを聞きたくない人のような反応だ。
「あ、やっぱり、あの箱って何か意味があったんですね。今もあそこに置きっぱなしですけど…」
 研究室の入口の方を振り返って、箱を指差すアキ。
「そうよ。アキさん、箱の中身については、話さなくていいわ…。今の私は中身を知らないし、これからも|知ってはいけない《・・・・・・・》の…。あれは、未来の私―の皮を被った何者か―を、嵌めるための仕掛けなのよ。もう、アキさんは無事に戻ってきたことだし、中身を確認してもいいのだけれど、念には念をってやつね」
「やっぱりそうだったんですね。未来の研究所に着いた時、3年もの間、あの箱をあのままの状態で放置してあるのが不思議だったんですよ…。…って、仕掛けを用意していたってことは…」
「そうね。この天才、相馬|しょうきょ《・・・・・》の予想が悪い方向に全面的に正しければ、未来の私は何者かにすり替わっていて普通に研究所にいると読んでいたわ」
「そうだったんですね…。さすがショーコさん…」
 未来があんなことになっているなんて全く想定せず、未来へ行ったことを一時は後悔すらしていたアキは、ショーコが未来の状況を想定した上で対策まで立てていたという事実に素直に尊敬の念を抱く。
「まっ、天才ですから!」
「その一言がなければ、素直にすごいって言えるのに…。自画自賛しちゃうもんなー、ショーコさんは…」
「自画自賛でもしないと、研究者なんてやってられないのよ…。それで、続きは?」」
「あ、はい。その箱の中身を見た瞬間、偽物のショーコさんが壊れたみたいにおかしくなって…。高遠さんが回収していきました…」
「未来の高遠の様子はどうだった? 何か変な様子とかは?」
「高遠さんは、目に見えておかしくはなかったんですけど、壊れたショーコさんを普通に奥の部屋に運んでて、なんだか不気味だったので、ショーコさんのアドバイスに従って、その場から逃げました」
「そう…」
「それから、事業所のメンバーを頼ったんですけど…。テツ先輩が2人いたり――あ、テツ先輩ってのは、私の職場の先輩で…。あと、私なんか、5人もいたんです…。それでも『彼ら』は平然としていて…。気味悪くなってまた逃げちゃいました」
「それは災難だったわね…」
「そうなんですよ。それで、一旦気持ちを落ち着けるために、自宅に向かったら…」
「向かったら…?」
「なかったんです…。居住区の家々が…。どこもかしこも、空間ごと削りとられたみたいに消えていて、辺り一面クレーターだらけで…」
「ショックね…」
「本当、ショックでした…。もう泣きそうでした。それで、家の近くの公園で途方に暮れていた時に、ショーコさんのメモに気づいたんです。あの、電話番号の」
「ナイスタイミングだったわね」
「全然ナイスじゃないですよ…。未来へ行く前に教えてくれていれば、あんな大変な思いはしなくて済んだかもしれないのに…」
「教えてしまうと、色々と不都合が生じる可能性があったのよ…。あの箱の中身を私が知らないのと同じよ」
 ショーコは、視線だけを入口付近に置いてある例の箱に向ける。
「どういうことです?」
「『何かを知っている』という状態が、その後の展開に及ぼす影響を考慮したのよ。『アキさんがある事実を知っている』と、相手は『『アキさんがある事実を知っている』ということを知っている』状態になるでしょ? そして、アキさんがそれを認識した時、アキさんは、『相手は『アキさんがある事実を知っている』ことを知っている』ことを知っている』状態になる。それで相手はそれをまた知っているから…」
「えっと、頭が混乱してきちゃいました…」
「まあ、要するに、『ある事実を知っていること』は、思考の無限連鎖を生むということよ。そして、思考の無限連鎖の行き着く先は『状況の最適化』。しかもその最適化は、頭の良い方にとって有利なものになる。将棋とかチェスでも思考の先読みをし合って頭の良い方が勝つでしょ? あれは、『より頭の良い方が勝利する』っていう『最適化』が起こっているとも言い換えられるわ」
「なるほど…」
 アキは目線だけを上に向けて、わかったようなわかってないような表情をしている。
「私の予想が悪い方に正しかった場合、アキさんは未来で、とっても頭の良い『何か』と対峙する可能性があって、もしそうなったら、アキさんにとって悪い方向に事が運ぶと考えたというわけ。だからあえて知らせなかった。『知らない』ってことは時に武器になるのよ」
「要するに、ショーコさんの優しさだったわけですね…」
「そうそう。何もひどい目に合わせたいからやったわけじゃないのよ」
 ふふ、とショーコは優しく微笑む。
「話を戻しましょうか。メモに気づいた後、どうしたの?」
「あ、はい。それから、電話しようと思ったんですけど、携帯電話の充電が切れちゃってて…。その時に、アッシュに助けてもらったんです」
「アッシュ?」
「日比谷アッシュです」
「知らないわね。誰…?」
「私も詳しくは知らないんですけど、未来で困っていた私を救ってくれた恩人です。未来のショーコさんは知ってたんですけど…。まあ、そのアッシュが電話を貸してくれて、本物のショーコさんと会うことが出来ました」
「そうだったのね。それで? 未来の私は何て言ってた?」
「人類が犯した3つの過ちについて話してくれました。そして、それを過去に戻って何とかして欲しいと」
「3つというのは?」
「1つ目が、『ショーコさんが量子コンピュータの技術をマクマード博士に提供した』ことだって…」
「マクマード…。やはり人工知能絡みなのね…。私の技術供与が引き金か…」
 ショーコは珍しく深刻そうな表情でうつむく。
「そうなんです。未来がおかしくなってしまったのは、人工知能『ニューロくん』の仕業だって言ってました」
「『ニューロくん』?」
「マクマード博士が作った、量子コンピュータ搭載の完全自立思考型AIだそうです」
「はぁ。やっぱり…。技術供与なんてするんじゃなかったわ…」
 悪い予想がことごとくヒットしていることに、苦虫を噛み潰したような表情で爪を噛むショーコ。
「それで、第2の過ちってやつは?」
「それが、2つ目だけ覚えてないんです。思い出そうとしても、全然で…。ちなみに第3はアッシュのことでした」
「3つあるって言われて、2つ目だけ忘れるなんて妙ね…」
「そうなんです。よくわからないんですけど、何故か2つ目だけ思い出せないんです…」
 第2の過ちである、『マクマードプログラムの欠陥』については、時空管理人のクロノスによってアキの記憶から完全に消去されていた。さらにクロノスと出会ったという事実も、まるで夢の中での出来事のように、アキはすっかり忘れてしまっていた。
「そう…。2つ目は不明と…。それで3つ目のアッシュのことってのは?」
「その…、『日比谷アッシュが、フロンティアきっての『詐欺師』で、彼のせいで、被害が拡大した』と…」
 私にはそうは思えないといった表情のアキ。
「なるほどね…。なんとなく全体像はつかめたわ。ありがとう、アキさん…」
 アキの話を聞いた上で、目を閉じて考え事を始めるショーコ。
「うーん…。ちょっと問題が複雑過ぎて、作戦を練る時間が必要ね。アキさん、今日のところは一旦お開きにしましょう。3日後、私の方から連絡するわ」
「わかりました…。とりあえず今日のところはこれで。私もアッシュのことについて情報を集めてみます」
 3日後に約束を取り付け、アキは椅子から立ち上がり出口へと向かい、ふと足を止め、ショーコに尋ねる。
「あのぅ、ショーコさん…?」
「ん? 何かしら?」
「ちょっと、気になったんですけど、『箱の中身は生きてますか』って質問なんですけど、もし本物のショーコさんだったら、何て答えたんですか?」
「ああ、それね。私なら…」
 ――箱の中身は生きているとも死んでいるとも言える。観測されるまで、両方の可能性が共存している――
「この天才が、『わからない』なんて口にするわけないじゃない」
 そう言って、ショーコはアキにウインクしてみせた。

⑪ いつもの日常

「……うーん。あれ? ここは…」
 時空管理人クロノスによる『選択』を終えたアキは、時空転送装置内にいた。辺りは青白い光に満たされている。目の前には、強化ガラス製の見慣れた扉があり、その向こうでは、ショーコと高遠が心配そうな表情でこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
 少しぼんやりした頭で、トボトボと扉の前に近づくと、扉が自動で開き、その瞬間にショーコが抱きついてきた。
「…アキさん! おかえりなさい!」
「無事に帰って来られたみたですね…。いや、よかった…」
 二人の出迎えの言葉で、アキは、自分が無事に元の時代に戻って来られたことを知る。
「…あ、えっと…、ただいま…」
(…何か重要なことを忘れている気がする)
「未来はどうだった…? 私の予想が正しければ、アキさんを辛い目に合わせてしまったかもしれないのだけれど…」
「…あ、えーっと、あの。それが…」
(…なんだっけ)
「…その、何かとても大変なことが起きていたのは覚えているんですけど、それが何だったのか思い出せなくて…」
「それって、『人工知能』が関係したりしない?」
「うーん…。人工知能…? そうだっけ? なんかちょっと記憶が曖昧になっていて…」
「相馬博士。天道さんは、時間移動の影響で疲れてるんだと思います…。今日のところは一度自宅でゆっくり休んでもらった方が…。時間も時間ですし…」
 高遠は、自身の腕時計を二人の前に差し出し、ショーコに提案する。高遠の時計は、5月5日の21時半を指していた。アキが未来へ転送されたのは、18時半頃だったので、こちらの時間では、3時間ほど経過していたことになるらしい。
「…たしかにそうね。記憶の整理をするためにも、一度しっかり休んでもらった方がいいかもしれないわね…」
「なんかごめんなさい。力になれなくて…」
「いいのよ、アキさん。無事帰ってきてくれただけで十分よ。詳しい話は明日聞くことにするわ」
 明日再びショーコの元へ訪れる約束を取り付け、アキは研究所を後にすることにした。螺旋階段を上って外へ出ると、辺りは暗くなっていた。アキは、ぼーっとする頭をリフレッシュするために、配達時と同じくらいのスピードまで加速すべく、氷砂糖を取り出そうとパーカーのポケットに手を突っ込むと…。
(ん…? あれ? ビンが二つある…)
 一方は、いつもの氷砂糖の入ったビン。もう一方は…。
(…相馬丸だ! そうそう。未来のショーコさんにもらった加速薬で、これを食べて未来に戻ってきたんだった…)
 記憶を一部取り戻したアキは、一旦戻ってショーコに伝えようと思ったが、せっかくなら、きちんと記憶の整理をしてから、明日まとめて話そうと思い、今日のところは、一度自宅へ帰って休むことにした。
 氷砂糖を口に放り込み、風を切りながら、自宅のある居住区へと向かうアキ。家路へ向かう途中、未来で起きた出来事を整理しようとするが、一つ一つの記憶の断片が頭の中でごちゃごちゃとしていて、うまく整理できない。
(…とりあえず、部屋で寝よう。寝てスッキリすれば…)
 と、自宅近くのいつもの公園の前に差し掛かると、ふと重要だと思われる記憶が頭の中に浮かび上がって来て、アキは思わず足を止めた。
「…。…アッシュ。日比谷アッシュ! 彼に会って話をしないと…!」
 誰もいない夜の公園で、何かをひらめいたかのように独り言をつぶやくアキ。
「確か、未来で助けてもらったんだった…この公園で…」
「ん…? でもなんで彼と話をしないといけないんだっけ…」
(うーん…。わからない。やっぱり一旦帰って寝よう)
 アキは、疲れた頭をブンブンと左右に振り、色々と思い出すのをやめて、自宅へと向かった。

「ただいまー」
「あら、アキ。おかえりなさい。遅かったわね。何かあったの…?」
 自宅へ戻ると、アキの母親が心配そうな顔で尋ねてきた。
「うーん、ちょっと野暮用で…」
「お仕事関係? 残業にしても、ちょっと遅過ぎるわね」
「ううん。仕事は関係ない。まあ、色々とね…」
「………そ。ご飯、テーブルにラップしてあるから、温めて食べちゃいなさい。あと、お風呂も沸いてるから、さっさと入っちゃいなさい。それと、お父さんは明日早いから、もう寝ちゃったわよ」
 年頃の娘にしつこく詮索するのもどうかと思ったのか、遅くなった理由を深くは聞かず、その代わりに牽制として、父親がもう寝てしまったという情報を伝えるアキの母。どうも、『野暮用』が異性関係であると勘違いをしているようだ。
「はーい。わかった」
 アキは、そんな母親の勘違いを少し面倒くさいなと思いながら、軽く返事をして流した。
 ささっと食事とお風呂を済まして、自室へ戻るアキ。早速、記憶の整理をしようと、机にノートを広げて、ペンで書き出そうとするが、疲れからか、眠気が襲ってきて、手が進まない。それもそのはずで、現在の時間では3時間ばかりの出来事であったが、未来では半日以上、緊張状態を経験してきたのだ。疲れで眠くなるのも無理はない。
本当は寝る前に記憶の整理をしておきたいと思っていたが、疲れた頭で考えても仕方ないと、眠気に身を任せ、そのままベッドへと潜りこんだ。

 目が覚めると、頭の中はスッキリしていた。いつもより1時間早く目が覚めたので、朝の時間を使って、未来での出来事を整理することにした。

 ☆ 未来での出来事(時系列順)

 時空転送装置で未来へ着く
 ↓
 ショーコと高遠の様子がおかしいので逃げる
 ↓
 スピードスター事業所のみんなの様子もおかしいので逃げる
 ↓
 自宅へ帰ろうとするが、自宅が削り取られている
 ↓
 途方に暮れたところに日比谷アッシュに助けられる
 ↓
 未来のショーコさんと会って、『相馬丸』をもらい、過去へ戻る

「よし! 大体こんな感じだったはず」
 アキは、箇条書きしたページを切り取って、出かける準備を始めた。

「いってきまーす!」
「はい、いってらっしゃい。あんまり遅くならないようにね!」
「はーい!」
 よく寝てスッキリしたし、記憶の整理も出来たしで、軽やかな気分で家を出るアキ。向かうのは、いつものバイト先、スピードスター事業所だ。
 居住区からは通勤、通学する人々がバスを待つ行列を作っている。アキはいつもの光景に安心し、その横を颯爽と駆け抜けて、商業区へと向かった。商業区の街並みも、おなじみの景色で、いつも見る雑貨屋に、パソコンショップ、レストランに、コラボカフェ。ビルの高い位置には、今期のアニメのキャラクターを前面に出した広告が掲示されている。
(ああ…、ちゃんと帰ってきたんだ…)
 アキは、自分が未来から戻ってきたという実感を街並みから得つつ安心する。そうこうしていると、事業所の前に到着した。

「おはようございまーす!」
 元気よく事業所へ入り、タイムカードを切るアキ。山下とテツオはすでに出勤しており、二人でコーヒーを飲みながら談笑していた。
「おう、アキ! 今日はいつもより早いじゃねーか!」
「あ、おはよう、アキちゃん。ハハ…」
「あ…」
 いつも通りの様子のテツオと山下に少し感動して、アキは少し涙声になりながら、
「あの、二人はいつもの二人ですよね…?」
 と、自分でも何を聞いているんだろうと思うような、おかしな質問をする。
「あ? 何言ってるんだ? 頭でもぶつけたか?」
「ハハ…、アキちゃん、何かあったのかい?」
「あ、いえ! 何でもないです。良かった…」
 未来で見た悪夢のような現実とは、違ういつもの日常。その安心感にほっと胸をなでおろすアキ。だが、ほっとする反面、このいつもの日常が3年後には壊れてしまうという事実に恐怖し、何とかして食い止めなければと決意を新たにする。

「今日は、〝超急〟のみで、午前中に4本、午後に1本。かなり暇だねー、ハハ…。二人で手分けして、お願いね」
 テツオとアキは、山下から荷物を受け取り、レース前の陸上選手のようにストレッチをしながら、気合を入れている。
「よっしゃ! いっちょ配ってくるか!」
「テツ先輩! 件数同じですし、戻るの遅い方がジュース1本おごりね!」
「おお、負けねえぞ!」
「ああ、二人とも、くれぐれも事故とかには気をつけてね、ハハ…」
 二人は目配せで山下に返事をすると、事業所を飛び出した。

 勝負は、アキの勝ちだった。
「はぁー、ついに私もテツ先輩を超えるときがきたのかー…」
 遠くを見つめ、わざとらしく感慨深げな表情で勝利のMOXコーヒーをゴクゴクと飲むアキ。
「いやいや、俺の方が圧倒的に荷物重かったし、配達場所間の距離もあったし、でなあ…」
「荷物の重さは、男の子なんだし当然のハンデですよー。距離もテツ先輩の方が年上なんだしー」
 言い訳じみた言い方のテツオに対して、茶化すように返すアキ。
「男の子だからってのは百歩譲って良しとしても、年上ってのは解せん。この仕事は、むしろ若い方が有利だと思うぞ…」
「まあまあ、テツ先輩。素直に私の方が速いって認めましょうよ! ねっ!」
「たしかに、アキは速くなったよ…。俺はもうダメかもしれん…」
「ああっ! テツ先輩、そういう感じじゃないです! 私が求めているのは…。そういう言い方は寂しいからやめてくださいよぅ…」
 二人は午前の配達を軽々と終えた。午後の分はテツオが引き受け、アキは急に入るかもしれない個別案件に備えて、事務所で待機することになった。
 結局、個別案件は入ることはなく、アキは定時でタイムカードを切り、足早にショーコの元へと向かった。

⑩ 時空管理人クロノス

 相馬丸は、口に含んだ瞬間、脳内をハンマーで殴られたような感覚になるほどの強烈な甘さで、一瞬クラッとしたが、確かにショーコの言うとおり、加速衝動は起きない。
 いつもであれば、こんなに甘いものを口にしたら、一瞬で加速衝動に心を支配されて、すぐにでも飛び出してしまいそうなところだ。
 トンネル状の時空転送装置の前で、クラウチングスタートの格好で待機するアキ。転送準備が出来ていないのか、強化ガラス性の自動ドアは、まだ閉まっている。
 アキは、相馬丸を口の中で転がし、モニター前に待機するショーコをちらりと見遣る。
「アキさん、あと13秒待って…!」
 ショーコは何やら忙しない様子で、モニター前のパネルを両手で高速タッチしながら、視線は外さずに、こちらに声を掛ける。
 まるでゲームセンターでよく見かける〝音ゲー〟プレイヤーみたいだなと思いながら、アキは、ショーコに向けて、黙って親指を立ててOKのサインを出す。
「……。………。…………これで、オッケーっと!」
 ショーコは、高速タッチの手を止め、パネル上の文字を左から右へ目で追い、最終確認を終えると、パネル横にある自動ドアの開閉ボタンを、キーボードのエンターキーを勢い良く押す感じで、『…ッターン!』と叩いた。アキの前の扉が開き、時空転送装置内の照明が手前から奥へと順に灯っていく。
「さ、アキさん。頼んだわよ…! 人類の未来、あなたに託すわ…! 加速して!」
「はい!」
 先程までアキの口の中で転がされていた相馬丸はほとんど溶けていた。アキは、元気よく返事をすると、時空転送装置内へと駆け出した。
 加速衝動はなかったが、加速を始めると、アキは自分でも、いつもよりもスピードが出ているのがわかった。過去から未来へ加速した際には、加速衝動のせいで、自分ではよく分からなかったが、今回は『速さ』を実感出来ていた。初速で時速200キロメートル、その後ぐんぐんと加速し、最高速度でマッハ0.8―時速1000キロメートルにも迫る速度で駆け抜けた。
(なにこれ、チョー気持ちいい…!)
 アキは、全身が泡立つ感覚を覚えた。爽快感が頭の中を支配し、全身を気持ちの良い風が通り抜ける―というよりは、気持ちの良い風に全身が溶けて一体化する感覚だ。そんな爽快さに酔いしれていると、辺りは黄色い光に包まれ、転送が始まったことがわかった。
 ショーコは、アキの様子をモニターで観察しながら、最高速度に合わせて、量子情報の解析ボタンを押し、『解析完了』の表示を確認すると、『転送』を行った。
「過去の私によろしくね…。アキさん…」
 モニター上のアキの姿が消えるのを確認したショーコは、ほっとため息をつき、安心しきった表情で、
 ――その場から消えた。
 ショーコが立っていた場所は、空間ごと削り取られ、〝クレーター〟が出来ていた。

 目を覚ましたアキは、混乱していた。
(ここ…どこ…?)
 加速した先は、元いた時代の量子力学研究所の時空転送装置内だとばかり思っていたが、今いる場所―というより空間―はよくわからないところだった。
 まず、とにかく暗い。が、真っ暗というわけではなく、薄暗いという感じだった。
 次に、辺りを見回すと、まるでプラネタリウムの中にいるような光景が展開されていた。ただ、プラネタリウムと違うのは、視線の先にあるのが、〝満天の星々〟ではなく、〝歪んだ形をした無数の時計群〟であるということだ。
 さらによく目を凝らすと、個々の時計の周りには小さな映像が映し出されていた。映像の詳細は遠くてはっきりと確認出来なかったが、ジャングルであったり、何やら騎馬隊が合戦をしていたり、ビル群が映し出されていたりと、様々な時代の映像であることはわかった。ぐにゃりと歪んだ時計も、その隣に映し出されている映像も、空いっぱいに数え切れないほどあり、星空のようにキラキラと煌めいていた。
(…って、空? 何なの、夢の中…?)
 アキは、自らのほっぺを軽くつまんでみた。うん、たしかにつまんだ感覚はある。というか、そもそもきちんと地に足がついてるし、意識もはっきりしている。地面を見ると、床一面黄土色をしており、さらに床には謎の文字がびっしり書かれており、古代文字を記した石版を敷き詰めたみたいになっている。よくわからない空間だけど、ここが現実であることは間違いない。
 ふと、顔をあげると、目の前に扉があることに気づく。その扉はどうやって支えられているのかよくわからないが、地面に立っている。扉を開けてみると、向こう側が見渡せたが、今いる空間が先に広がっているだけだ。とりあえず、扉をくぐってみると、辺りが少しだけ明るくなったような気がした。と同時に、右手前方に新たな扉が出現した。ますますわけが分からなくなったが、この謎空間に、ただ突っ立っていても仕方ないと、アキは次の扉をくぐる。またも少しだけ辺りが明るくなり、今度は左前方に新たな扉が出現した。左前方の扉をくぐると、目の前に上り階段が現れた。階段は地面からゆるやかに空中へと伸びていた。これまたどうやって支えているのかわからないが、一段、二段と踏みしめてみて、崩れる心配はなさそうだということを確認して、一歩ずつ上ってみる。階段を上っているが、上に上った感じはしない。一段一段進むにつれて、その一段一段が足元へと消えていく。下りエスカレターを逆走しているような感じだ。階段を上り終え―階段が足元から完全に消え、辺りを見渡すと、今度は後方にぼうっと光る祭壇のような場所が現れた。ゆっくりと近づくと、祭壇の前に誰かが立っている。立っているが、動いていない。ピタリとマネキン人形のように固まっている。その〝人形〟は、全身白のドレススーツで、白銀の髪に白のハットを被っている。全身白のコーディネートのアクセントと言わんばかりに、ハットにまかれているリボンだけは黒で、際立っている。
「キレイ…」
 その〝人形〟の透き通るような美しさに目を奪われ、アキは思わず声が漏れる。
 すると、アキの声に反応するように、その〝人形〟はアキに優しく微笑みかけた。
「あ…」
 アキは、その表情の美しさに目を奪われ、いきなり動き出したことにびっくりする暇もなかった。
「久しぶりのお客様ですわね。はじめまして。わたくし、フロンティアの時空管理人を務めております、クロノスと申します」
 〝人形〟だと思っていた女性は、クロノスと名乗り、スカートの両端を両手で軽く持ち上げ、足をクロスさせて丁寧にお辞儀をした。
「あ、えっと。はじめまして…。私は天道アキです…」
 クロノスの礼儀正しい挨拶を受けて、アキは、自分の置かれた状況を聞くよりも先に、反射的に自己紹介をしていた。
「天道アキさん。良いお名前ですわね。ここへ来たということは、何か大きな時間の歪みに巻き込まれたということですわね。お気の毒に…」
「あ、巻き込まれたというか、自分で巻き込まれたといいますか…。あの、時空転送装置っていって、私、3年後の未来から過去へ戻ろうとしていて…」
 初対面の人間に、何から説明したものか戸惑い、ちぐはぐな説明をするアキ。
「ああ、そういうことですのね。それならば、お仕事の時間ですわね…」
 クロノスは得心したといった様子で、両手をアキに向かって伸ばし、手のひらを上に向けた。すると、その両手から、光る水晶のようなものが浮かび上がってきた。
「あなたが、過去へ戻るには、どちらかの記憶を選択せねばなりません。さあ、選びなさい」
 そう言うと、クロノスの両手の平の上に浮かぶ水晶に、アキが経験してきた未来の映像が映しだされる。右手の水晶には、『ショーコから相馬プログラムのチップを受け取った』シーン、左手の水晶には、『公園で途方にくれる自分に、アッシュが声をかける』シーンがそれぞれ映し出されていた。
「選択すれば、あなたを過去に戻しましょう。選択しないのであれば、私が、このまま時空の牢獄に幽閉して差し上げましょう」
 礼儀正しい仕草は崩さず、丁寧な言葉づかいで何やらおっかないことを言い始めるクロノス。その瞳から先程までの優しさが消え、カッと目を見開いてアキを見つめていた。
(クロノスさん、目、恐っ…! よくわからないけど、これ、完全に〝仕事モード〟の目だ…)
 アキは、クロノスの視線に気圧されながらも、
「あの、少し考えさせてもらってもいいですか…?」
 と、クロノスに猶予を請う。
 クロノスは、いいでしょうと言わんばかりに、少し俯いて長めの瞬きをした。それをOKの合図と見て、アキは考える。
(なんだか、よくわからないけど、このクロノスさんって人、時空管理人っていうくらいだから、あれね、きっと時空警察みたいな。過去に記憶を持ち帰って悪いことをする輩を取り締まる的な。それで、どっちか選べってことね。えっと、右手には『相馬プログラム』、左手には『アッシュ』。|選んだ方《・・・・》の記憶を過去に持ち帰ることができるってわけか。うーん…。まあ順当に考えれば、右手の『相馬プログラム』に決まってる。アッシュには申し訳ないけど、未来のためだし…。人類の第1、第2の過ちを正せば、AIに支配される未来は救える。でも、アッシュにはお礼を言いたいし、もう一度きちんと話をしておきたいし…)
 右手の人差し指と親指を顎にあて、左手で右の肘を抱えながら、目を閉じて考え込むアキ。薄目でチラっとクロノスを見ると、
(…ってよく見ると、クロノスさん、すっごいこっち睨んでる気がするんですけど…。さっきから全然瞬きしてないし…。ってよく見ると、目血走ってない…?)
「…決まりましたでしょうか?」
「あ、もうちょっと待ってください」
「…わかりました」
 クロノスは依然として目を開いたまま、アキの選択を待つ。
(っていうか、そもそも両方とか選べないのかしら。どっちも捨てがたい…。両方お願いしますとか言ったら怒られるかな…。まあでも、『選択しない』のであれば、時空の牢獄に幽閉とか言ってたし、両方を選択するってのは、『選択しない』とみなされるかも…。そうなるとやばいな…)
 考え込むアキ。
(ん…? あれ、クロノスさん、ちょっと涙目になってない? あ、目が乾いてきているのね…! あの水晶を維持するのに目を開き続けるみたいな条件があるのかしら。このまま様子を見てみるのも…)
 目が乾いて、涙目になりながらも、カッと更に目を見開き、無言でアキへと選択を迫るクロノス。
(わ! めっちゃ目見開いてる…。やばい。これは怒らせてしまうかも。普段おとなしい人ほど、怒ると恐いのよね。クロノスさんの眼球をいたわってあげて、さっさと選択してあげないと…)
「えっと、決まりました。あの、こっちで…」
 アキはクロノスの右手の水晶を指差し、『相馬プログラムのチップを受け取る』方を選択した。
 アキが考えている間、無言になっていたクロノスは、
「あなたの選択、しかと承りましたわ…」
 と、短く言うと、アキが選択した|右手《・・》の水晶を握り潰した。
 パリンという小気味いい音がして『相馬プログラムを受け取る』映像は粉々になって地面へと落ちていく。
「え…! ちょっと…!」
 ――やられたっ! 詐欺に引っかかったと理解した瞬間の背筋がゾクゾクするような寒気を感じて、アキは、
「ちょっと、待って、話がちが…」
「天道アキ。あなたを過去へと戻しましょう。それでは…」
 アキの抗議を遮るようにクロノスは言葉をかぶせて、左手の水晶をアキの胸に押し付けると、水晶はアキの体内にスーッと入り込み、その瞬間、足元からまばゆい光が溢れ、アキは、時空管理人の前から姿を消した。

「相馬プログラム…。そんな大規模な時間干渉、この私が許すわけないじゃない。バーカ…」
 クロノスは、先程までの丁寧さはどこへやら、アキがいた空間にあっかんべーをすると、ドレスのポケットから目薬を取り出して、乾いた両目を潤した。
「キターーーーッ! この乾いた目が潤う瞬間が気持ちいいのよね」
 そう言い残し、祭壇の後ろにある扉へと消えていった。

⑨ 相馬プログラム

「それで、ショーコさん、このAIに支配された|未来《いま》を変えるためにはどうすれば…」
 と、アキが切り出そうとすると、
 …くぅ。
 小動物の鳴き声のような控えめな音がアキのお腹から鳴る。
「あ…」
 思えば、未来に来てから何も口にしてない。
「あら、お腹空いてるのね。何か食べながらお話しましょうか」
 ショーコはそう言うと、テーブルに備え付けられているメニュー表を開き、アキに差し出す。
 アキは何か甘いものを食べたい気分ではあったが、つい今しがたスティックシュガー5本入りの甘い甘いミルクティーを飲んだこともあり、これ以上糖分を摂取すると、加速衝動に駆られそうだと判断し、サンドイッチを注文した。それに合わせてショーコは追加でお冷を2つ注文した。

 テーブルに置かれたサンドイッチは、厚切りのトーストに、ベーコン、レタス、トマト入りのいわゆるBLTサンドで、中々のボリュームだ。アキは、そっと両手を合わせて、「頂きます」と控えめに言うと、その小さな口を大きく開けて、口いっぱいに頬張る。ショーコは、お冷に浮かぶ氷を指先で転しながら、アキがサンドイッチを頬張る様子を、母親が子供を見守るような優しい眼差しでニコニコと見つめていた。
「ほへで、ひょーこはん、はくってひふのは(それで、ショーコさん、策って言うのは)…」
 サンドイッチをもぐもぐしながら、アキが切り出す。
「こらこら、アキさん。もぐもぐしながら話すなんてはしたないわよ」
 そう言うと、ショーコはアキの口元についているケチャップを指先で拭って、ペロリと舐める。
「あ…」
 アキは、ショーコの艶めかしい仕草に、ちょっとドキっとして、頬を染めた。口の中のサンドイッチをよく噛んで、コクっと飲み込み、
「ごめんなさい。結構お腹空いてたみたいで、つい…」
 えへへと照れ笑いしながら、お冷を一口飲む。
「そんなにお腹空いているなら、先に食べちゃいなさいな。その間に計画を説明するための準備をするわ」
 ショーコは、白衣のポケットからメモ帳とペンを取り出し、長い矢印ようなものを書き始めた。アキは、残りのサンドイッチをモグモグしながら、ショーコの書く図を眺めていた。
 サンドイッチを食べ終えると、メモ帳には、始点と終点そして真ん中に日付が書かれた長い矢印が描かれていた。ショーコは始点に書かれた『2017/5/5』に丸をつけて、
「ここが、アキさんが未来へ転送された日付ね…」
 と、説明を始めた。
 ショーコの説明によれば、完全自立思考型AI―通称『ニューロ』が誕生した2019年12月31日を、『技術的特異点』あるいは単に『特異点』と呼び、『特異点』の前後で起きた『人類の3つの過ち』を過去に戻って防いでもらうために、アキを未来へ送ったということだった。
「へ? ということは、私がいた時代のショーコさんは、未来がこうなることを知っていたんですか…?」
「いいえ。知らなかったわ。ただ…、一つの可能性として予想はしていたわ。まあ、まさかこんなにひどいことになるとは思っていなかったけれどね…。人類が、自ら生み出した技術に蹂躙されるなんて…ね。科学は…、科学技術は、生み出した人間がきちんと責任を持って管理する必要があるわ。生み出した|技術《モノ》が人類に利をもたらすか、害をもたらすか、そんなのは世に出してみないとわからない。けれど、|技術《それ》が人の手を離れて、管理不能な状態になるのだけは、決して避けないといけない。これが科学者としての矜持よ」
 ショーコは珍しく苦い表情をしていた。
「…話を戻しましょう」
 自らの感情をリセットするようにショーコは言い放ち、メモ帳に書き込みながら説明を再開する。
「『人類の3つの過ち』すなわち、
 1.『相馬ショーコによる技術供与』
 2.『マクマードプログラムの欠陥』
 3.『日比谷アッシュによる扇動』
 この3つのうち、1と2に関しては『特異点』の前で起きた出来事、3に関しては『特異点』の後に起きた出来事ね。過去に戻ってもらってまずやってもらいたいのは、1と2への『介入』よ」
「『介入』? 『阻止』ではないんですか…?」
「ええ。2017年5月5日、アキさんを未来へ転送した日の時点で、私は、すでにマクマード博士に量子コンピュータ技術の大部分を提供してしまっているわ。だから、阻止するのは不可能。そこで…」
 そう言って、ショーコは白衣のポケットからケースに入った小型チップを取り出す。
「これは…?」
「『相馬プログラム』よ! これを、過去の私に渡して欲しいの」
「『マクマードプログラム』の修正版ってわけですね!」
「そう。そもそも、マクマード博士の発想は、人工知能の―人間の心理をわかっていないわ。『人類に敵意を持ったら強制終了する』なんて〝脅されたら〟、誰だってそれを避けようとするものよ」
「『相馬プログラム』っていうのは、どういう内容なんですか?」
「『人類の管理下にある時に強い幸福感を感じる』というプログラムよ。そもそも、完全自立型のAIを生み出した時点で、それはもはや人間を作るのと同義。『ニューロ』は単なる技術ではなく、人間なのよ。だから、『制御』ではなく、『モチベート』してあげる必要があるわけ。この辺りは、研究者としてというよりは、その研究者の教育哲学が現れる部分ね。マクマード博士の助手は苦労してると思うわ」
 アキは、話を聞いて感心する反面、ショーコの助手の高遠も相当に苦労しているだろうけど、と思いながら、苦笑いを浮かべた。
「とにかく、この『相馬プログラム』を、過去の私に渡すというのが、アキさんの第1のミッションよ」
「わかりました!」
 アキは、『相馬プログラム』のチップを受け取った。
「そして、次のミッションは…」
「アッシュですね…」
「そう。日比谷アッシュ。過去の彼と何とかしてコンタクトを取って欲しいの。『相馬プログラム』が機能すれば、今のように人類がAIに支配される世界なんてものは訪れないでしょうけど、念には念をってやつね。ただし、彼を決して信用しないこと。なんてったって、〝800万人をこの世から消した〟人間なのだから…」
「そう…ですね。アッシュとはもう一度きちんと話をしてみたいと思っていましたし…」
 未来で途方に暮れる自分を救ってくれた恩人であるアッシュが、|〝800万人をこの世から消した〟《そんなことをした》という事実を受け止めきれていないアキは、複雑な表情でうつむき、両手の指を絡めてテーブルの上に置く。
「アキさん。ダメよ。そうやって考え込ませるのも、彼の手口かもしれないわ。何かあれば、すぐに私に相談しなさい。未来でも過去でも、いつの私もアキさんの味方よ」
 そう言って、ショーコはテーブルの上に置かれたアキの手を両手で包みこむようにして握った。
「ところで、ショーコさん。私、どうやって過去に戻ればいいんですか?」
「ああ、それなんだけど、私のかつての研究所―アクセルにある量子力学研究所の『時空転送装置』を使って戻ってもらうわ。|ノア《ここ》の中にも研究室はあるんだけれど、手狭なせいで、大掛かりな装置は作れなくてね」
「えっと、でも大丈夫なんですか? アクセルにはAIがうろついてますし、研究所には、ショーコさんの〝偽物〟だっていますけど…」
「ああ、それなら大丈夫よ。マクマードプログラムの効果で、AIにとって人間はあくまで中立。直接攻撃してくることはないし、話しかけられても適当に返事をして話をあわせておけば問題はないわ」
「あ、そっか。そしたら、ここまで来るのにビクビクしなくても良かったんですね…私」
「ああ、でも、〝説得〟してくることもあるから、それには耳を貸さないように注意ね。詳しくは向かいながら話すとしましょう」
 アッシュが残していった代金と、追加で注文したBLTサンドの代金の合計を支払い、ショーコとアキは喫茶店を後にした。
 ノア内部の案内などもなく、善は急げと言わんばかりに足早に歩くショーコに連れられて、アキは来た道をすぐに引き返し、アクセルへの量子テレポ装置へと向かった。

 ノアからテレポしてきたアキが目にしたものは、見覚えのあるモニタールームであった。
「あれ、ここは?」
「あら、ごめんなさい。説明し忘れてたわね。本来量子テレポは、転送カプセルがある場所ならどこへでもテレポ可能なの。ただ、AIの侵入を防ぐために、ノア|への《・・》テレポは、各地区に一つずつ配置された|暗号つき《・・・・》の転送装置からしか入れないわ」
「って、ことは、ここは量子力学研究所…?」
「そうね。そして、幸いなことに今、〝偽物さん達〟は留守みたいね。さっさと過去へ戻りましょうか。はい、これ」
 そう言うと、ショーコはまたも白衣のポケットから小さなビンを取り出した。アキは、ショーコのポケットから色々なものが出てくる様子を見て、まるで某ネコ型ロボットの『4次元ポケット』みたいだなんて思いながら、小ビンを受け取る。
「なんですか、これ?」
「アキさんのための『魔法の薬』よ。経口摂取でも、静脈摂取と同等、いえ、それ以上の糖分を体内に取り込むことができるわ。さらに、初期加速衝動も抑えてくれる万能薬ね。私としては、アキさんのお尻に座薬を挿入してあげたかったのだけれど…」
 ふざけて妖艶な眼差しを送るショーコに対して、アキは身体をすくめて、両手をお尻にあてた。
「…もう、ショーコさん、ふざけるのはやめてくださいよ!」
「さて、とりあえずその小ビンには、『魔法の薬』―開発者であるこの天才の名前を冠して『|相馬丸《そうまがん》』とでも名付けましょうか―が3粒入っているわ。まだ試作品でたくさん作るのが難しかったの。ごめんなさいね。今から1粒使って過去に戻ってもらって、残りは|過去《あっち》で何かあったときのために持っておくといいわ」
 たしかに小ビンの中には、親指ほどの大きさの丸いドロップのような薬が3粒入っていた。
「さ、名残惜しいけれど、偽物さん達が戻る前にさっさと転送しちゃいましょう。アキさん、相馬丸を一粒食べて、転送装置へ!」
「はい!」
 アキは相馬丸を口に入れ、時空転送装置の入口でクラウチングスタートの体制を取った。