⑧ 人類の3つの過ち

「今からちょうど半年ほど前になるわね。2019年12月31日、この世界のルールは変わってしまったわ。人工知能―AIの研究が行き着くところまで行き着いた結果、人間と同じ思考能力を持つ、〝完全自立思考型AI〟が完成したの。開発者は、ジョン=マクマード博士。私と同じノイマン財団の資金援助を受けて研究をしていた研究者で、脳科学者よ。彼は、AI第1号の名を『ニューロ』と名付け、世間に発表したわ。世界はこの『研究成果』を『人類の大いなる一歩』として歓迎したわ。ところが…」
「ああ…。ショーコさん、私、なんとなく話が見えてきました。その人工知能、にゅーろ? とやらが、世界を乗っ取ったってわけですね?」
「そう。相変わらず察しがいいのね。アキさんのそういうところ、好きよ。ただ、話はそう単純でもなかったの」
「と、言うと…?」
「『ニューロ』を生み出したマクマード博士とその研究チームも、完全自立思考型のAIが世界を牛耳るなんてシナリオは当然想定済みで、そうならないための予防策を打っていたわ。『ニューロ』に隠しプログラムを仕込んでおいたの」
 『ニューロが人間に|敵意《・・》を持ったら、自動停止する』
「通称〝マクマードプログラム〟。これが人類の第|2《・》の過ちだった。というか、話をしていて頭にくるわね。マクマードって本当に脳科学者だったのかしら。人工知能をナメすぎよ。人間の脳みそだってそんな単純なつくりはしていないってことくらい分からなかったのかしら…ブツブツ」
 何やら怒り心頭の様子で、レモネードのストローをガシガシと噛み始めるショーコ。
「あのう、ショーコさん…?」
「ああ、ごめんなさい。例の〝予防策〟があまりにもお粗末過ぎて、天才であるこの私としたことが、イライラしてしまったわ…」
「でも、人間に|敵意を持たない《・・・・・・・》なら、『ニューロくん』は人類に|友好的《・・・》だったってことですよね?」
「いいえ。『ニューロ』が取った行動は|中立《・・》よ。つまり、敵意も好意も抱かない宙ぶらりんの状態を取ったの。『ニューロ』には、量子コンピュータの技術が応用されていて、幾億通りの可能性を同時に思考して、その中で最適解を見つけることができる〝スーパーな脳みそ〟が搭載されていたのよ。って、他人事みたいに言ってるけど、技術供与したのは、この私なんだけどね…。これが人類第|1《・》の過ちよ」
「|中立《・・》ってことは…」
「そう、自動停止なんてしない。というか、そういったプログラムを生みの親に組み込まれているという事実すら、『ニューロ』にとっては可能性の範疇。つまり想定済みだったわけ」
「『ニューロくん』ってすごく頭がいいんですね…」
「そう! なんてったって、『ニューロ』の思考回路の大部分は、この天才、|しょうましょーこ《・・・・・・・・》が作ったんですもの! …って、そんなこと言ってられないわ…」
 一瞬いつもの覇気を取り戻したかに見えたショーコだったが、自らが人類最初の過ちを下してしまったという事実を再認識し、しゅんとなる。
「…んっん! 話を続けましょう。アキさんに質問なんだけど、あなたにとって、敵でも味方でもない存在が近くにいたら、どうする?」
「えっ…、うーん。どうでしょう。何もしないというか、当たり障りのない感じに接すると思います…」
「そしたら、もう一つ条件を付け加えるわ。その敵でも味方でもない存在が、ものすごーく〝おバカさん〟だったとしたら?」
「うーん。なるべく近寄らないようにするかも…」
「それでも、向こうから積極的に近づいてきたとしたら?」
「自分に害がないなら適当にスルー…ですかね」
「逆に、自分に得があるとしたら? 例えば、そうね、いつも甘いお菓子をタダでくれるとか。うーん、ちょっと違うわね。くれるというよりも、目の前で落とすの。いつも『そいつ』の近くに甘いお菓子が転がってるの。で、当の本人はそのことに気づかないし、落としましたよって教えてあげても、〝おバカさん〟だから、自分じゃないですとか言って受け取らない」
「ああ、それなら近くにいて欲しいです! お菓子製造機ですね!」
「そう。中立って立場は、時に『利用関係』へと変質するのよ。頭の良い方が頭の悪い方を利用する。頭の悪い方は利用されていることに気付かず、利用され続ける」
「あの、それって…」
「例え話から本題へ戻すわ。『ニューロ』はとんでもなく頭が良いの。人類なんて到底及ばないほどの頭脳を持っているわ。そんな『ニューロ』からしたら人類なんて虫けらほどの頭脳しか持っていない〝とんでもないおバカさん〟なのよ。そんなことも気づかず、人類は『ニューロ』を歓迎した」
「その結果、人類は利用されてしまったというわけですね…」
「その通り。ただし、『ニューロ』はあくまで人類に対して中立、言ってしまえば、隣人。近づかなければ、特に何もされないわ。ただ近づいた人間は…」
「………どうなったんですか?」
「懐柔されたわ」
「かいじゅう…?」
「うまく言いくるめられて、抱き込まれたってことよ。『ニューロ』の奴隷になったと言い換えてもいいわ。『ニューロ』がまず最初にやったことは、仲間集め。自分と同じような存在を増やしていくこと。アキさんが、|ノア《ここ》に辿り着くまでに出会ってきた『奴ら』と呼ばれる存在。あれは人間の皮をかぶった『ニューロ』の奴隷よ」
「………」
 アキは未来で出会った気味の悪い|人間《・・》のことを思い出し、複雑な表情でうつむく。と同時に、疑問が生まれ、ショーコに問う。
「でも、待ってください! 私、ここに来るまでにショーコさんにも会いました…! 例の『質問』を投げかけたらおかしくなっちゃいましたけど…」
「ああ、あれは私ではないわ。クローン人間というと分かりやすいかしら。私の生体情報を元に作られた人工知能体よ」
「ってことは、ショーコさんも『ニューロ』の奴隷に…?」
「それは違うわ。私は私、それ以上でもそれ以下でもない。決して『ニューロ』に魂を売ったりはしないわ。ここで人類第|3《・》の過ちについて説明をするわ。本来、『奴ら』になるプロセスというのは、何らかの形で『ニューロ』に生体情報を奪われ、|複製《コピー》を作られるところから始まるの。コピーが出来上がると、非合理的なことを嫌う性質の『ニューロ』にとって、コピー元のオリジナル―つまりは、本来の人間―は世界を最適化する上で邪魔な存在でしかなくて、何とかしてオリジナルを消そうとするの。オリジナルが消されたら、残るのは、人間の皮をかぶった『奴ら』のみってわけ」
「…消すって」
「といっても、〝マクマードプログラム〟のせいで、『ニューロ』は人類に|敵意《・・》を持つことは出来ない。だから、|中立的な隣人《・・・・・・》として、オリジナルを|説得《・・》するのよ。あなた、この世から消えた方がいいですよって」
「…そんなこと可能なんですか? この世から消えたいと思う人なんて…」
「あら、そうでもないわよ。人生なんてクソゲーだ。苦しまずにこの世から消えてしまいたいなんて思ってる人、結構いると思うけど?」
「…たしかに、そういう病んでる人には有効かもしれませんけど…」
「まあ、これは極端な例ね。とは言え、実際こういう病んでる人は早々に、あっけなく、この世から〝退場〟したわ。アクセルの居住区の惨状を見たでしょ? あれは『ニューロ』によって空間ごとまるまる削りとられて、文字通りオリジナルが消滅した痕跡なの。あくまでオリジナルの同意の上でね」
「…ってことは、アクセルのみんな、お父さんやお母さん、テツ先輩も…?」
「残念ながら、そうなるわね。というか、アキさん、あなたもよ…」
「…! そんな…。私、この世から消えたいと思うことなんて、一度も…」
 と、言いかけて、ふと〝困惑のスポーツテスト事件〟のことがアキの脳裏によぎる。あのときは、たしかに、なんとなくこの世から消えてしまいたいと思ったような気がしないでもない。
「そう。問題は、この世から消えたいと思っていなかった人々も次々と消えてしまったこと。その原因が、人類第|3《・》の過ち、日比谷アッシュの存在よ」
「…どういうことですか?」
「さっきも言ったけど、彼は天性の素質を持った『詐欺師』なの。まさか、心を読める異能力を持っていたなんて知らなかったけれど、色々と納得したわ。彼のせいで、本来消えたいなんて思ってもいなかった人たちも、思考を誘導され、『ニューロ』との〝取引〟に判を押すことになった…。なにせ、フロンティアに存在する15地区全域の80%、数にして800万人の人間が彼のせいで、納得した上で消えてしまったのだから。言ってしまえば、彼は『ニューロ』にとっての絶好のビジネスパートナーってやつだったわけね」
「そんな…。アッシュは…そんな悪い人には思えなかった…」
「それって、思考誘導されてるんじゃない? アキさん? 未来へ来て色々と不安になっていたところに現れた救世主だものね。白馬の王子さま的な。たしかに、顔はそこそこカッコよかったわね」
 ニヤニヤとアキを見つめるショーコ。
 白馬の王子様って言葉が乙女心をくすぐり、一瞬そうなのかなと思って、少し頬を赤らめるアキだったが、即座に否定した。
「…そんなんじゃないですってば!」
「…って、冗談はさておき。彼の目的が何なのかは分からないけれど、『ニューロ』の計画に加担した彼も、悪いことをやっているなんて意識はなかったのかもしれないわね。良かれと思ってやった。それはそれで厄介極まりないけれど…。何にせよ、彼とは今は関わらない方がいいわ」
 ひとしきり話を終える頃には、テーブルの上に置かれたミルクティーとレモネードは飲み干され、アッシュの頼んだブラックコーヒーだけが半分以上残されたままだった。

「以上が、未来のフロンティアで起きている出来事。今、このノアに残された人間は、フロンティア各地から『ニューロ』による|説得《・・》を逃れてきた人々よ。ノア内部に、『奴ら』が侵入してこないように、テレポ装置に仕掛けをしておいたわ。あと、電波傍受されないようにもね。まあ、『はい』と言わなければ、オリジナルの|人間《わたしたち》が消されることはないから、各地にバラバラにいても良いのだけれど、自分の皮をかぶった人工知能体から、隣人として消えるように説得される毎日なんて、それだけで、それこそ消えてしまいたくなりそうでしょ?」
 だから、こうして残された人類は一つの場所で身を寄せて生活しているのだそうだ。
「どう? なかなかにハードモードでしょ?」
「そうですね…。頭を抱えたくなるくらいには…」
 興味本位で未来に行ったみたいと思っていたあの頃の自分には全く想像もつかないハードさだ。まさか、人工知能によって人類存亡の危機に陥っているだなんて。
 ただ、これは紛れもない未来の、しかも遠くない未来―たったの3年後―の話なわけで、うかうかしていたら、あっという間に現実になってしまう短さだ。
 空になったカップのふちを指でなぞりながら、どうしたものかと考え込むアキだったが、ふと目の前の白衣姿の|天才《・・》の顔を見て、
「…あ、でもでも! ショーコさんは、この状況を何とかするために私を未来へ転送したんでしょ? 何か策があるってことですよね?」
「ふっふっふ…。当たり前じゃない! 私を誰だと思っているの? フロンティアが生んだ奇跡の天才、いえむしろフロンティアの軌跡そのもの、天才、相馬ショーコ|しゃま《・・・》よ!」
 せっかく名前を噛まずに言えたのに、普段つけない『様』とかつけちゃったせいで、噛み噛みになるショーコであった。

⑦ ショーコとの”再会”

 |日比谷アッシュ《ひびやあっしゅ》と名乗る見ず知らずの青年に声を掛けられて戸惑うアキだったが、今はとにかくショーコに電話をかけたい一心で、アッシュから携帯を借りようとすると、
「あ、使ってもいいんですけど、ちょっとこの場で電話するのはまずいので、場所を変えましょう」
「どういうこと…?」
 アッシュはアキの不安な表情から何かを読み取ると、少し言葉を崩して、
「|ここ《・・》で通信を行うと、『奴ら』の目に留まってしまうかもしれないからね。とりあえず安全な場所まで移動しよう」
 そう言うと、アッシュは、スタスタと居住区の方へ歩き出した。
 アキの不安は相変わらず拭えないままであったが、未来での奇妙な日常を目の当たりにしてきた今のアキにとっての唯一の光明は、今手にしている『本物』のショーコの連絡先であり、その連絡先への通信手段であるアッシュの持つ携帯電話であり…。とにかく、アキはアッシュの後ろをついていくしかなかった。
 アキは、先程までの奇妙な出来事が頭から離れず、警戒して少し距離を置いて歩く。そんなアキに対して、
「そんなに警戒しなくても、僕は|バグったり《・・・・・》、|二人以上に増えたり《・・・・・・・・・》はしないよ。そういうのは、『奴ら』の特権だ。まあもし、仮にそうなったら、|得意の加速《・・・・・》でまた逃げればいい」
 と、見透かしたように声を掛けるアッシュ。
「…え? なんで…そのことを…」
「ああ、驚いたかい? 僕も君と同じ|異能持ち《ホルダー》なんだ。僕の異能力は『人の心を読む』能力。その人が考えていることが手に取るように分かるんだ」

 自分以外の|異能持ち《ホルダー》を見たのは初めての経験だった。しかも未来で遭遇するとは思わず、戸惑うアキ。未来に来てから色々なことが起こり過ぎて思考の整理が全然追いついていない。
(………………)
「|未来で起きる出来事に《・・・・・・・・・・》かなり混乱してるみたいだね。まあ、道中、ゆっくり整理するといい。|おっしゃる通り《・・・・・・・》、『同類だから大丈夫ってことにはならない』んだけど、『とにかく本物のショーコさんに連絡をとるのが先決だ』ってことは事実だろう?」
(………)
「本当に全部、筒抜けなんだ…。あなたの言うとおり、もう私にはそれしか選択肢がないみたい。やんなっちゃう…」
 普段のアキだったら、『なにその力、すごい!』とテンションMAXになるところだが、状況が状況だ。ため息をつくしかなかった。
 アッシュはかつての居住区―今では不気味なクレーター地帯となってしまった地区―をどんどん進んでいく。
「まあ、安心してよ。僕は君の味方だ…なんてことは言わない。ただ、携帯電話を貸してあげる心の優しい通行人さ」
「はぁ、それはどうも…」
 選択肢を奪われたアキは、もうごちゃごちゃ考えるのをやめて、黙ってアッシュの後ろについていくことにした。

「さ、ついた。中へ入ろうか、アキ」
 アッシュに案内された場所は、居住区のクレーター群の中でもとりわけ大きく深い『穴』の目の前であった。『穴』の大きさからか、ここだけは、人が入り込めないように『穴』の周りに工事現場で目にするような簡易式のバリケードが張り巡らされている。
「ここを下った先に『入口』があるんだ。もう少しだよ」
 そう言って、アッシュはバリケードをひょいとまたぐと、そのまま穴の中心へとゆっくり滑り降りていく。アキは、蟻地獄に飲み込まれる蟻になった気分で、正直良い心地はしなかったが、仕方なく黙ってついていく。
 『穴』を滑り降りること数分。かなり深いところまで来て、もはや外の景色は見えず、『穴』の側面しか見えない。上を見上げると、夕日が沈みかけて、やや暗くなってきていた。深層へ進むにつれ、地質が変化し、徐々にゴツゴツとした岩場のようになっていく。岩場地帯を降りきると、ついに底が見えてきた。クレーターの中心部は、少し開けた空間になっており、上からは確認が出来なかったが、壁面に頑丈そうな鉄扉があった。扉の横には、ショーコの研究所で見た量子テレポ装置の電子パネルのようなものが設置されている。
「お疲れ様。|そうそう《・・・・》。ご存知の通り、量子テレポってやつ。操作するから、ちょっと待ってて」
 アッシュは額にうっすらと滲んだ汗を手の甲で拭って、パネルを操作し、
「僕は僕だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 パネルに向かって謎の『宣言』をすると、鉄扉が開いた。
「今のは…」
「|そのとおり《・・・・・》。『奴ら』と『本物』を見分けるための『暗号』みたいなものだね」
 思考を先読みされるのってあまりいい気持ちはしないけど、こっちが|思う《・・》だけでいいからアッシュとの会話は楽ね、なんて思いながらアキは扉をくぐる。
 扉の中は、エレベーターほどの広さの個室になっていた。
「キミみたいに素直な人ばかりならいいんだけどね…」
 アッシュは少し淋しげな表情で、そうつぶやき、扉を閉めるスイッチを押した。
 扉が閉まると、アッシュとアキの周りを淡く黄色い光が包み込み、転送が始まった。

 暗転した視界が開けると、辺りは青白い光に満たされていた。どうやら転送に成功したようだ。アッシュが扉を開けると、そこは、デパートや駅の地下街を思わせるような空間が広がっていた。
「アッシュ…。ここは…?」
「フロンティア第0地区。通称ノア。僕ら『本物』の人間の〝最後の砦〟だよ」
「第0地区?」
「ああ、そう。キミのいた時代にはなかった場所だ。地区と言っても、この地下街が全て。人類の居住区域も随分と狭くなってしまったよ…」
 立ち話もなんだからと、アッシュはアキを連れて近くの喫茶店へと入った。
 入口付近のテーブル席に座るなり、アッシュはブラックコーヒーとロイヤルミルクティーを注文し、スティックシュガーを5本つけてほしいと付け加えた。もちろんすべてミルクティーに入れるためのものだ。
「まずはアキ。はい、電話。ここなら『奴ら』から通信を傍受されることはないから」
「ありがとう」
 アキは、二つ折りの旧式の携帯電話を受け取ると、ショーコのメモに書かれていた番号を入力し、発信ボタンを押した。
 プルルルル…プルルルル…。
 電話の発信音が聞こえてきて、ちゃんと発信出来ていることに安堵するアキ。
 プルルルル…プルルルル…。プルルルル…プルルルル…。
 が、中々繋がらず、少し不安になりかけたその時、
 ガチャ。
 (…繋がった!)
「もしもし、ショーコさんですか…!」
「………その声は、アキさんね…!」
「……はい! アキです! ショーコさん…ショーコさぁん…!」
 安心感から少し涙声になるアキ。
「とりあえず、今からそっちへ行くわ。そこで待ってて…!」
「あ、はい…! えっと場所は……」
 アキが自分の居場所を伝えるために、アッシュに確認を取ろうと言葉に詰まっていると、
 プツッ。ツーツーツー。電話は切れてしまった。
「あ、切れちゃった…」
 すぐにもう一度かけ直すが、発信音が鳴り続けるのみで、一向に出る気配はない。
 注文したコーヒーとミルクティーがテーブルに置かれる。
 不安げな表情のアキに対して、
「|ショーコさんは天才《・・・・・・・・・》なんでしょ? なら大丈夫じゃない? すぐに駆けつけ…」
 と、アッシュが言葉をかけようとすると、喫茶店の入口に人影が現れた。
 その〝人影〟は白衣姿でこちらに背を向けて仁王立ちをしていた。よく目を凝らすとぜぇぜぇと肩で息をしているように見える。
「……ショーコさん…!」
 アキは、後ろ姿ですぐにショーコだと分かり席を立って駆け寄る。
 ショーコは、振り返って、駆け寄るアキを包み込むように、両手をいっぱいに広げて一言。
「はぁ…はぁ…。ようこそ…未来へ…アキさん。|しょぅましょぅきょ《・・・・・・・・・》。本物よ…」
 感動の再会のシーンに、これでもかというほど名前を噛み倒すショーコ。
 が、アキにはそれがたまらなく嬉しくて、未来に来てからの不安や緊張の糸がぷつっと切れ、堰を切ったように涙が溢れ出し、そのままショーコの胸に飛び込んで泣きじゃくった。
 そんなアキをショーコは優しく抱きしめた。
「不安な思いをさせて、本当にごめんなさい。アキさん…。ここまで、よく頑張ったわ」
「うぅ…うっ…えっぐ…。…よかった。やっと会えた…ショーコさん…」
「さあ、今は思う存分、このフロンティアが生んだ稀代の天才、|しょぅみゃしょうきょ《・・・・・・・・・》の胸の中で泣くといいわ…」
「うっうぅ…。ふふ…。ショーコさん、噛みすぎ…。ふふふ…」
 ショーコのあまりの噛み倒しっぷりに、泣きながらも、思わず笑みを溢すアキ。
 アッシュは、そんな二人の様子を、遠くのものを眺めるように見つめ、冷たいレモネードを追加で注文した。

 アキはショーコを席に案内し、これまでの経緯を話した。未来の研究所のショーコに例の質問をしたら、ショーコが『わからない』と答え、おかしくなったこと。それを平然と運び出す高遠の様子。不安になって、その場から逃げて、スピードスターの事業所を頼ったが、テツオや未来の自分が複数存在し、気味が悪くなり、またも逃げ出したこと。自宅に戻ろうにも、居住区が穴ぼこだらけになっていて途方に暮れたこと。そんな中で、アッシュと出会い、ノアまで連れてきてもらったこと。アッシュは自分と同じ|異能持ち《ホルダー》で、人の心を読む異能力を持ち、電話を貸してくれた恩人であるということ。
 一連の説明を、ショーコは、深く頷きながら聞いた。その様子はまるで、学校で起こった一日の出来事を話す我が子の話に頷く母親のように、優しさに満ちていた。
 ひとしきり話し終えたアキは、安心しきって、少しぬるくなったミルクティーにスティックシュガーを5本まとめて投入し、飲み始めた。
「それにしても、やけに気が利くと思ったら、心が読めるとはね、アッシュくん」
 ショーコはアッシュが|頼んでいた《・・・・・》レモネードを一口だけ飲み、話しかける。
「お初にお目にかかります。相馬博士。噂は聞いていますよ。それにしても、今回、アキさんを未来へ送ったのは大きな賭け…でもないですね…」
 ショーコの心を覗いたアッシュは、アキが未来へ来て取る行動とその結果起こるであろう出来事の組み合わせを大きく8つ想定し、さらにそのシナリオごとに起き得る小さなノイズのような出来事―すべて組み合わせるならば、実に256パターン―をすべて想定していていたことが読み取れた。
「アキさんが不安になることは想定していたけれど、まさかあんなに泣くとは思ってなかったわ」
 ショーコの言葉を聞いて、アキは照れくさそうに笑う。
「あと、日比谷アッシュ、あなたの存在も想定外よ」
 ショーコは真剣な面持ちでアッシュをまっすぐ見つめる。
「……やだなぁ、相馬博士。そんな|おっかない選択肢《・・・・・・・・》まで用意しないでくださいよ…」
「ショーコさん、アッシュは大丈夫だと思う…。最初は怪しい人だと思ったけど、今こうして私がショーコさんと会えたのは、アッシュのおかげだし…」
「アキさんの素直なところは、とても素敵だと思うわ。ただ、この男は信用してはダメ。フロンティアきっての『詐欺師』なのだから…!」
「……あくまで徹底抗戦の構えですか…」
 アッシュは取り付く島もないと判断したのか、やれやれと肩をすくめて、
「ま、今日のところは退散することにしますよ…。アキ、またどこかで…」
 そう言い残し、三人分の飲み物代をテーブルに置いて店を出ていった。
 アキは、突如として訪れた険悪なムードに、どうしたらいいものか困った表情をしていた。
「ショーコさん…。どういうことですか? アッシュが『詐欺師』だなんて…」
「ごめんなさいね、アキさん…。あなたはこの3年で起こった出来事を知らないんだから当然よね…。あの、日比谷アッシュという男は、今のこの状況を―人類が追いやられている世界を―作った人間の一人なのよ…!」
「え…」
「順を追って話をするわ…。アキさんを未来に送った理由も含めてね」

⑥ 3年後の不気味な日常

 研究室から飛び出し、螺旋階段を駆け上がるアキ。後ろから追いかけてくる気配はないが、『バグったショーコさん』とそれを何事もなく運び出す高遠の様子から、アキは得も言われぬ不気味さを感じ、『本物のショーコ』の言葉に従い、なるべく遠くに逃げることにした。
 螺旋階段を駆け上がる間、地上に出たら、〝世界崩壊後〟の荒廃した世界が広がっていたらどうしようかと少し不安になっていたアキだったが、量子力学研究所を出て目にした世界は3年前とさして変わらない、『いつもの』景色だった。
(よかった。世界は無事だった…)
 なんだか、中二病ポエムのような感想が頭に浮かび、少しおかしかったが、先程見た光景のおかしさに比べれば、まともな感想だと思った。
 そう、世界は無事だった。
 アキは、先程の異常な光景は、研究所の中だけでの話で、きっと二人共、研究のし過ぎで、思考の合理化が行き着くところまで行き着いてしまい、いっそロボットにでもなってしまった方が良いとかなんとか結論づけて、二人で『科学者としての人生を謳歌した』だけの話に違いないと思いたかった。
 そのくらいに外の世界は、いつもの日常を刻んでいた。時刻は夕方過ぎだろうか。夕日が沈みかけていた。
(そうだ、テツ先輩に会いに行こう。テツ先輩ならきっと何とかしてくれる…)
 アキは、混乱しかけた頭をリセットするように、両手で頬を叩いて気合いを入れ直し、スピードスター事業所のある商業区へと駆け出した。

 商業区を走っている間、目に入ってくる光景は3年前と大して変わらなかった。見たことのない店もあったが、元々商業区はテナントの入れ替わりの激しい場所だったし、3年も経てば新しい店があっても何ら不思議ではない。高層ビルに見たことのないアニメの広告が掲示されているのが気になって、あれは一体何のアニメなのだろうかと、ふと足を止めそうになったが、そんなことよりも今は事業所に向かうのが先決だと、アキは先を急いだ。
 スピードスター事業所についた。よかった。ちゃんと残ってる。
 アキは、ほっと安堵のため息をついて、事業所の自動ドアをくぐった。事業所の時計はちょうど定時の17時を指そうとしていた。ちょうど営業終了間際の時間なので、テツオもいるに違いない。
「すみません…。アキです。テツ先輩います…」
 と言いかけたところで、奥のデスクから山下が出てきた。
「あ、アキちゃん。ハハ…。どうしたの? って、あれ、アキちゃん|ひとり《・・・》?」
「あ、山下さん!」
 山下がいたという安心感から、アキは心が軽くなった。そして、3年経っているにも関わらず、私の顔を見るなり、いつもどおりの優しい笑顔で声をかけてくれたことに嬉しくて泣きそうになった。
「…あのう、色々お話したいことがありまして、テツ先輩っていますか?」
「ああ、テツオなら、もうすぐ戻ってくると思うよ。ハハ…」
 そんなやりとりをしていると、事業所の扉が開き、テツオが現れた。3年経っても、大きく変わることはなく、いつものテツオだった。
 テツオはアキを見るなり、おかえりと言わんばかりのにこやかな笑みでアキを見つめ…。
「テツ先輩…!」
 アキはテツオを見るなり、自慢の加速力でテツオの胸に一直線に飛び込み、抱きついた。
「うっ…! ぐぉ…。おいおい。どうした? アキ…。そんな勢いで飛び込まれたら、いくら頑丈な、この俺でも…」
「テツ先輩…! テツ先輩…! よかった…。会いたかった…」
 未来に来て早々、〝おかしくなった〟ショーコと高遠の姿を見て感じた不安を必死に押し殺し、事業所の二人までおかしくなってしまっていたらどうしようという不安もあって、不安まみれのアキであったが、山下と、そして何より実の兄のように慕うテツオが、変わらない姿で自分を迎えてくれたことに対する安心感から、少し涙目になり、テツオの胸に顔を埋めた。
「おいおい、アキ。リョウも見てるんだから、こういうことは時と場所をわきまえてだな…」
 と、いつものように茶化してくるテツオの態度が、今のアキにはとても愛おしく感じられた。そんな二人の姿を山下はニコニコと眺めていた。

「落ち着いたか?」
 涙目になっているアキの頭をそっと撫でるテツオ。
 テツオの優しい手の温かさで、冷静さを取り戻したアキは、テツオに抱きついているという事実に気恥ずかしさを覚え、テツオからぱっと飛び退いて、ポツリと一言。
「テツ先輩…。ありがとう…」
「このくらいお安い御用よ。胸くらいいくらでも貸すぜ。…で、何かあったのか?」
 アキはこれまでの事情を説明した。3年前のあの日、量子力学研究所の相馬ショーコの元へ行き、未来へやってきたこと。未来の相馬ショーコは様子がおかしく、慌てて逃げ出してきたこと。相馬ショーコが普通じゃなくなった今、過去に戻る方法もなく、途方に暮れていること。
 アキは、事の顛末を改めて自分の口で語ると、あまりにも現実離れしていて、二人がちゃんと聞き入れてくれるか少し心配になったが、テツオと山下は、そんな心配が吹き飛ぶくらいに、アキの話に真剣に耳を傾けた。話を聞いた二人は、満面の笑みで、アキを見つめ、
「そんなに心配すんな。一緒に過去に戻る方法を探してやるよ」
「過去に戻る方法が見つかるまで、ここで働いてもいいよね…。ハハ…」
 と、優しい言葉をかけた。この二人がいてくれるなら、何とかなりそうだとアキは安心した…。

「ハハ…。ところで、アキちゃん、もう一度聞くけど、|ひとり《・・・》なの?」
 ほっとしているアキに、山下が変なことを聞いてきた。
「え? ひとりってどういう…」
 と、返事をするタイミングで事業所の扉が開いた。
 そこには、もう一人のテツオがいた。
(………!)
「おお、アキじゃないか。どうしたんだ? そんな顔して」
 もう一人のテツオは、アキの強張った表情を見て声をかけた。
 安堵の表情から一転、徐々に表情が雲っていくアキ。
「あ…、あの…これって…」
「ハハ…。テツオだよ。何かおかしいかい?」
 アキは|隣にいる方の《・・・・・・》テツオに視線を移す。
「おう! 遅かったな。ご苦労さん。テツオ」
(………)
「あの、テツ先輩…?」
「「ん? どうしたんだ? アキ。そんな顔して。俺が二人いたら変か?」」
 二人のテツオが同時に同じ言葉を発する。同じ声色、声の高さで奇妙なハーモニーを奏でている。
「あ…、ちょっと、私、外の空気を吸ってきますね…」
 アキは、またも奇妙な現実を突きつけられ、少し冷静になりたいという思いと、この場から離れた方が良さそうだという心の声から、外へ出ようとする。
 よろよろと入口へ向かうアキに対して、
「ハハ…。大丈夫かい? アキちゃん…」
「「お、大丈夫か? 一緒についてってやろうか?」」
 山下とテツオとテツオが声をかける。
 アキは、後ろから聞こえてくる|3人《・・》の声を無視して、事業所の外へ出た。

 頭が混乱し過ぎて、整理が出来ない。なんでテツ先輩が二人もいるんだろう。というか、二人いるという事実を何も疑問に思っていないのはなぜなんだろう。これって、ショーコさんと同じように、テツ先輩も『何者か』になっているんじゃないだろうか…。山下さんは…。頭の中でいろいろな不安が湧き出てきて、目眩がしてきた。
 一回落ち着こう。そうだ深呼吸しよう。そう思って、事業所前の通りを見ると、前から女の子の集団が歩いてくる。どこかで見覚えがある姿…って。
 『アレ』は、私だ。未来の私だ。そうだ、未来の私に話をすれば、この不気味な状況の正体も…。
 よく見ると、未来の私は|5人《・・》いた。
 先頭を歩く女の子が未来の私だと思いきや、隣に並んでいる女の子達も全く同じ姿形をしている。
 配達を終えてリラックスしているのだろうか、ゆっくりこちらへ向かってくる。5人で仲良く談笑しながら並んでこちらへ向かってくる。どうやらこちらの様子には気づいてないらしい。
(いやいやいや…、なにこれ…。無理無理無理無理…)
 状況を整理するなんて暇はなかった。ただただ気持ち悪くなって、気がついたら、アキはその場から逃げ出していた。

 事業所で得た束の間の安心感を叩き潰しにくるような事実に、リアルに吐き気を催して、アキは、居住区の近くにある公園の水飲み場で口を濯いでいた。テツオと競走する時にいつもゴールにしていた例の公園だ。
「はぁ…、はぁ…。ふぅ…」
 水の冷たさで気持ち悪さは和らいだが、状況はさっきと変わらないどころか、さらに悪くなってしまった。未来のショーコは、もはやショーコではなかったし、スピードスター事業所も同じ人間が複数いる『大所帯』になっていたりと、頼るべきものがなくなってしまった。
(あ…)
 せっかく居住区の近くにいるんだ。自宅に戻ろう。お父さんとお母さんに会いに…。あ、でも、お父さんも、お母さんも普通じゃないかもしれない…。だとしたら…。
 いや、いいや。とりあえず部屋のベッドで少し横になろう。未来にきてから、色々なことがいっぺんに起きて、思考の整理が追いつかない。寝てスッキリすれば何かいいアイデアも浮かぶかもしれない。
 そんな一縷の望みにかけて、アキは自宅へと向かったが…。
 ――自宅は…なかった。
 別の人の家になっているとか、違う建物が建っているとかそういう次元の話ではなく、物理的になくなっていた。自宅のあった場所には、巨大なクレーターが出来ていた。アキの自宅だけではない。隣の家も、向かいの家も、テツオの家も、どこもかしこも本来家があった場所はクレーターになっていて、居住区一体穴ぼこだらけで、上空から眺めたら〝蓮コラ〟みたいで、さぞ気持ち悪いだろう光景に様変わりしていた。
(…どういうこと…なの…)
 アキは茫然自失し、ふらふらと、元いた公園のベンチにへたり込んでいた。
「はは…。ははは…。なんで未来になんか来ちゃったんだろう…私」
 突きつけられた絶望的な状況に、軽々しく未来へ行くなんて選択をしてしまったことに対して後悔の念が浮かび、泣きそうになる。
「はぁ…。ショーコさんの研究を手伝うなんて|約束《・・》しなければよかった…」

(ん…? |約束《・・》……?)
 ふと、未来へ行く前のショーコの言葉が思い出される。
―詳細は、未来から戻ってきたら必ず説明するわ。必ず…!―
 ショーコさんは、頭の良い人だ。単なる思いつきや、遊びで、私を未来へ行かせるとは考えにくい。何か意味があるはずだ。
(うーん。頭がまわらない。氷砂糖食べよ…)
 未来にきて大して|加速して《はしって》はなかったが、今回ばかりは、頭が純粋に糖分を欲しがっている感覚になり、氷砂糖を取り出そうとパーカーのポケットに手をいれる。
 すると、氷砂糖の入っている小瓶とは違う感触が右手に伝わる。
(ん…? なにこれ…紙…?)
 瓶ごと一緒にポケットから取り出す。出てきたのは、アキが未来へ行くために鎮静剤で眠っていた時に、ショーコがこっそり忍ばせたメモ書きだった。メモ書きには、こう書かれていた。
 『相馬ショーコ(本物)→TEL:09036……』
(電話番号だ…!)
 にしても、『相馬ショーコ(本物)』て。書き方が胡散臭いにも程がある。まあ、今はそれよりも電話だ。アキは氷砂糖とメモ書きが入っていたのとは逆の左のポケットから携帯を取り出すが…、
 携帯電話は電源が切れていた。
「あーーーもう! さっきから何なの!」
 希望を見せられては、潰される。そんなことの繰り返しに、絶望よりも、だんだん腹が立ってきたアキは、一人公園で携帯電話片手にプンスカと地団駄を踏む。
 そんなアキの元へ一人の青年が声をかけてきた。
「あの…、良かったら僕の携帯使います?」
 いきなり声を掛けられて、アキはビクッとした。
「え? 誰?」
 青年はキレイな銀髪の癖っ毛、ポロシャツにハーフパンツと散歩中かのようなリラックスした格好をしていた。身長はアキよりも少し低い。
 先程までの出来事で、未来の人間は信用ならないと、緊張した面持ちで距離を取ろうとするアキ。その様子を見て、先手を制すように、青年は返す。
「あ、怪しいものじゃないです。って言うと余計怪しいかな…。ちゃんと『普通の』人間なんで、安心して。僕、日比谷アッシュって言います。良かったら僕の携帯使ってください。必要なんでしょ?」

⑤ 未来で見たもの

 …ッドン!…ッドン!
 ものすごい音が聞こえて、何事かと目を覚ましたアキは、すぐにその音が自分自身の心臓の鼓動の音だと言うことに気づいた。
 と同時に、体中の血液が意思を持つ生き物のであるかのように全身を駆け巡る感覚に陥る。
「……あ…」
 全身を虫が這い回るようなゾワゾワする感覚に気色悪くなって、ベッドから飛び跳ねた。
「いやっ…!」
 すると、今度は、這い回っていた『虫』が後頭部のあたりに集まってきて、今まで感じたことのない欲求が押し寄せてくる。
(|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》)
 加速欲求はどんどん強くなり、頭がおかしくなりそうになる。
「…しょ、ショーコさん…。わ…たし……もう…」
「高遠くん! 準備はできてるわね!」
 ショーコは、時空転送装置を観察するためのモニター前にスタンバイしている高遠に最終確認を取ると、アキをトンネルの前に引っ張っていく。
 全身をわなわなと武者震いさせて、内股でトンネルの前に立つアキの両肩をそっと掴んで、ショーコは耳元で囁いた。
「さ、思う存分、|加速しなさい《ぶちまけなさい》」
 その言葉を合図に、アキの体はビクンと跳ね、一瞬全身から力が抜けたかのようにうなだれると、ものすごい勢いで前方のトンネル内へ駆け出した。
 あまりの勢いにショーコは後方に弾き飛ばされて尻もちをつく。
 アキの体は、前傾姿勢のまま、どんどん加速する。
「…! 想像以上ね…」
 そうつぶやいて、ショーコが起き上がる頃には、アキの後ろ姿は、豆粒のように小さくなっていた。
「高遠くん! どう?」
「すごいです。どんどん加速していきます。時速130、150、180、240…!」
 初速の時点で、自己ベストのキロメートルアベレージ35秒(=時速102.85キロメートル)をあっさりと更新したが、そんなこと、お構いなしにどんどん加速していくアキ。
「300、380、420…! まだ伸びます! 500、610…! 5キロメートル通過時点でマッハ0.5突破!」
「このあたりが限界ね…。予定通り、転送を開始しましょう」
「はい!」
 高遠がモニター前にある電子パネルのスイッチを押すと、赤みがかったトンネルの照明が淡く黄色い光に変わり、アキの体を包み込む。
 量子情報の解析中も、アキはどんどん加速する。
「660、720…! 解析完了! 相馬博士!」
「いざ、未来へいってらっしゃい! 頼んだわよ…。アキさん…!」
 高遠の合図で、ショーコは、転送スイッチを押す。アキの体は一瞬眩しく光ると、モニターから完全に消えた。
 転送直前まで加速したアキの最高時速は800キロメートルを超えていた。

 一瞬暗転した視界が開けると、トンネル内は青白く光っていた。
 さきほどまで、音速に迫る勢いで加速していたが、今は、いつもの配達で加速しているくらいの速度にまで落ちていた。
 そして、ゴールが見えたと思ったら、そこは、時空転送装置――トンネルの入口であった。
 どうやら、転送時に方向が逆転して、トンネルを往復した形になったらしい。
 ついさっきまで頭の中を支配していた、『加速欲求』は今はなく、糖分が足りない感覚もなく、意識もはっきりしている。コンディションとしては、良好だ。
 転送装置の入口に立つと、モニターの前に相馬ショーコが立っていた。いつもの仁王立ちで。
 そして、振り返って、ビシっと指をさして一言。
「ようこそ! 未来へ。|天道さん《・・・・》」
「あ…、その登場の仕方、3年経っても変わらないんですね…」
 どうやら、転送には成功した?らしい。
「あなたが、過去から来ることはわかっていたわ。この天才! |相馬ショーコ《・・・・・・》が、過去の実験を忘れることはないわ!」
「あ、今、実験って言いました…?」
「ええ、言ったわ。あれは、あなたを未来へ送る偉大なる|実験《・・》だった。何か問題でも?」
(………ん?)
「いえ、問題はないですけど…。ちゃんと未来に来ることができましたし」
「そう。これでよかったのよ。未来へ来た感想はどう?」
「んーと、なんか、研究所から研究所へ転送されただけなので、あんまり実感湧かないですね…。本当に未来なんですか…? ここ?」
「この電波時計を見なさいな。ほら」
 時計は、2020年5月5日を示していた。転送〝実験〟は2017年5月5日だったので、たしかに時計上は未来へ来てるらしいことがわかった。
「んー、そっかぁ…。でも、なんかあんまり変わんないんですね。ショーコさんも、研究所も。あ、高遠さんもいるんですか?」
「高遠は、今、|奥の部屋だ《・・・・・》」
(…………?)
 なんだか、さっきからショーコさんと話をしていて違和感を感じる。
 まず、登場時の私の呼び方が変だった。3年前のショーコさんは、私のことを『アキさん』とか『天道アキさん』と、名前を含んだ呼び方をしていたのに、『天道さん』と名字呼びだった。
 次に、名前を噛まなかったこと。ショーコさんは、サ行が連続すると決まって噛み倒していたのに、気持ち悪いくらいスラスラと。あと、私の転送のことを『実験だ』と言い放ったのもおかしい。あの流れは、『言ってないわ』と言い放ってしらばっくれるショーコさんを期待した前振りみたいな感じで聞いたのに。
 そして、今の高遠さんへの反応。「高遠くーん!」って呼ぶと思いきや、「奥の部屋」とだけ。しかも、「部屋|だ《・》」って断定する言い方なんてショーコさんらしくない。
「あのぅ…。ちょっとショーコさんに質問があるんですけど、いいですか?」
 違和感を覚えたアキは、過去のショーコからの課題を思い出し、例の『質問』をしてみることにした。
「なに? 何でも聞きなさい。この天才|相馬ショーコ《・・・・・・》に答えられないものはないわ」
(………また噛まなかった…)
『箱の中身は生きてますか?』
 アキは、過去のショーコに言われた通りに質問してみた。
「…………」
 咄嗟の質問に何かを考えるように一瞬フリーズして、
「え…、あ…。んー、ああ…。箱ね…。あの3年前の…!」
 と、続けるショーコ。
「ええ。そうです。箱の中身は生きてますか?」
 こんな質問に言い淀むなんてショーコらしくないと、アキは追撃するように同じ質問を繰り返した。
「中身を見ていないから、|わからない《・・・・》わ」
(…………!!)
 過去のショーコの言葉を思い出すアキ。
 ――もし、未来の私が『|わからない《・・・・・》』と答えたら、そいつは私じゃないということだけ覚えておいて――
(今、たしかに『|わからない《・・・・・》』と言った。この人は、ショーコさんじゃない。一体何者なの?)
「天道さん、どうしたの? 箱の中身が気になるの? なら、開けて確認してみましょうか」
 アキの様子を見て慌てて箱の元へ向かうショーコ。
 箱は3年前の、あの日あの時のまま、研究所の入り口付近の床に放置されていた。自分で置いたからよく覚えている。
 ショーコの姿をした『ショーコではない何者か』は何かに急かされるように、箱を開けた。
 そして、再び、今度は先程よりも長めにフリーズした。
 アキは恐る恐る近づいて、『ショーコではない何者か』の背後から、箱の中身を覗いた。
 箱の中には、『赤ちゃんの人形』が入っていた。そう、生き物ですらなかったのだ。
 そもそも、配達の時点で生き物だとしたら、事業所で山下から取扱の説明があっただろうし、配達した時に、『その辺に置いといて』なんて言い放ち、3年もの間、一切手をつけず放置してるなんておかしい。ショーコさんとはまだ短い付き合いだが、そういう不合理なことをスルーできるような人じゃないことは知っている。あの箱は、何か理由があって、|あえてそのまま《・・・・・・・》にしておいたんだ。
 にしても、人形なんて…。
 アキが思考を巡らせていると、
「天道さん、箱の中身は、そもそも生き物ではなかった。どうしてそんなことを聞いたのか、この天才相馬ショーコには、わからな…鏤帥€カ繧ァ・コΤ4・コムア㊦ッ・・賢荳・アN・ア・昶 キ・H・сアN・・ア*・cアス・・€ア盍N・・イH・オ盂「・ア盍)・若アサ・潟イ)・潟イ'・蚊アォ・帥イ-・・€ア盂H・ウ盂オ・ウ痼アΤサ・潟イ)・コΤG・ケ盂ォ・ゃアス・・アゥ・アΤ2・・イ%・潟アウ・ゃアJ・・イI・・ア「・エΤォ・オ盂・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≒€・€・€・€・€・€・€・€キ」
『何者か』は、言葉にならない意味不明な『音』を発しながら、虚ろな目で、しかし、ものすごい眼力でこちらを見つめて詰め寄ってきた。
 これはヤバイ…! アキは、さっと身を引いて『何者か』の伸ばしてきた手を躱し、距離をとった。
 こちらに迫ってくる『何者か』は、幸い動きが速いわけではない。一気に避けて、入口を駆け上がれば、逃げられる…!
 そう決意し、息を吸い込んだところで、入口とは反対方向にある部屋の扉が開いた。
「あらあら、相馬先生バグっちゃったか。仕方ないなぁ、もう」
 奥から出てきたのは、高遠であった。手にはなにやら小さなリモコンのようなものを持っていて、『何者か』に向けて、スイッチを押した。
 すると、『何者か』は糸が切れた操り人形のように、だらんと四肢を投げ出し、その場に突っ伏した。
 一連の様子を見たアキは、緊張と困惑が混じり合った表情で、高遠を見つめる。
「あ、天道さん。安心して、相馬先生はバグっちゃっただけだから。新しいのと交換すれば大丈夫…!」
 そう言い放って、『ショーコだったもの』を肩から背負って、奥の部屋へ運ぶ高遠。
 アキは転送前の本当のショーコの言葉を思い出す。
 ――未来で起こることで、何かおかしいと感じたら、すぐにその場から逃げること。いいわね――
 高遠が奥の部屋へ消えたのを見ると、アキは入口に向かって一気に駆け出し、研究所から逃げ出した。

④ 時空転送装置

「ここを、|加速する《はしる》…」
 アキは、『時空転送装置』と紹介されたそのトンネルを前に、ポツリと呟いた。
 トンネルは、10キロメートル先にある終点が見渡せそうなくらい、ただただ真っ直ぐに伸びていた。幅や高さは、鉄道車両を思わせる広さで、内部には暖色系の照明が均等間隔に設置され、全体的に赤みがかっていた。
「そう! 思う存分駆け抜けていいわ、全速力で。いえ、むしろ未来に行くためには、アキさんの限界を超えたスピードで駆け抜けてほしいの」
「限界を超えたスピード……」
(思いっきり|加速して《はしって》いいんだ…)
 運び屋の仕事をするようになってから、アキは日々街中を走り回っていた。
 が、配達のときも、テツオとの競走のときも、本当の意味での全速力を出したことはなかった。
 というのも、運び屋は、『許可証』と書かれた、その腕章が示すとおり、区から街中を走る『許可』を得ている立場であり、道行く人や建物に衝突しないよう細心の注意を払う必要があったからだ。
 連日キロメートルアベレージの自己ベストを更新したと喜ぶアキであったが、それは、事故を起こさないように注意を払った上での全速力――いわば〝街中を走るためにセーブした全速力〟であった。
 それこそ、アキが本当の意味での全速力で|加速した《はしった》のは、3年前の〝困惑のスポーツテスト事件〟が最初で最後であった。
「あなたの異能力《ちから》って、『体内に取り込んだ糖分を速さに変換する』異能力《ちから》よね?」
「…えっ、あ…はい。そうですけど…って、なんで知ってるんですか?」
「ああ、ごめんなさいね。3年前の例の事件以来、あなたのことは研究対象として…んっん、…じゃなかった、将来の研究パートナーとして、調べさせてもらっていたの」
「例の事件って…、スポーツテストのことですか…。何でも知ってるんですね、ショーコさんは…。というか、今、研究対象って言いませんでした?」
「言ってないわ」
「いや…、言いましたよね?」
「言ってないわ」
 〝本当に言ってないです〟風の真顔で二度も否定するショーコを、ジト目で見つめるアキ。
 ショーコはアキの視線をフフッと柔らかな表情で躱し、話を続ける。
「加速に必要な糖分は、こちらで用意してあるわ。高遠くーん! 天道さんに例のアレ、持ってきてー!」
「はいはい。わかってますよ…。というか、座布団持ってきてーみたいに言わないでください…」
 高遠は軽くため息をつくと、トンネルとは反対側――ちょうどテレポ実験の転送先になっていたカプセルの奥の部屋から、キャスター付きの簡易ベッドをアキの前に運んできた。
 ベッドには、病院でよく見る点滴剤の袋と小さな薬箱のようなものが備え付けられている。
「さ、アキさん、このベッドに横になって」
「あの…ショーコさん、まさか糖分って、点滴で……」
「そうよ。|経口摂取《・・・・》では吸収効率が悪いもの。ささ、横になって」
 アキは若干の不安を感じていたが、協力すると言った手前、断りづらいというのと、自分の限界を超えたらどうなるのかということへの興味から、ショーコに促されるまま、ベッドに|仰向け《・・・》になった。
(うーん…点滴久々だなぁ。チクッとするの嫌だな…)
「アキさん、|向き《・・》が違うわ。|仰向け《・・・》じゃなくて、|うつ伏せ《・・・・》になって」
「え、点滴を打つなら、|仰向け《・・・》でいいんじゃないですか?」
「ええ、普通はそうなんだけど、点滴を打つ前に、ちょっとした|準備《・・》が必要なの。この点滴剤には高濃度のブドウ糖液が入っているわ。おそらく投与を始めてすぐに、強烈な加速衝動にかられてしまうと思うの。今まで甘いものを食べた時に感じたものの比じゃないレベルのキョーレツなやつよ。そうなると、投与が完了するまで、とっても辛いでしょうから…」
 そう話しながらショーコは、点滴剤と一緒に置かれていたケースから小指の先ほどの大きさのクスリを取り出し、アキに見せた。
「加速衝動を抑えるクスリよ。さ、うつ伏せになって」
「まさか、ショーコさん…、それって…」
「ええ、座薬よ」
「………っ! 座薬…ですか…?」
 まさかの座薬の登場に驚きを隠せないアキに対して、何か問題でも?と涼しい表情のショーコ。
「ほら、早くうつ伏せになって、お尻出して。あ、高遠くん! わかってると思うけど、あなたは奥に引っ込んでなさいね。ここからは私とアキさんの『女の子の時間』だから。さ、アキさんお尻出して!」
 高遠は言われなくてもわかってますよと言わんばかりに深く頷き、ベッドが置いてあった奥の部屋へと戻る。
 高遠が奥の部屋へ消えたのを確認すると、ショーコはアキの体をひっくり返し、スカートの中に手を入れ、パンツを下ろし始める。
「ちょ、ショーコさん、待ってください! やめて! まだ心の準備が…」
「大丈夫よ、痛くしないから。ほら、お尻もっと突き出して!」
 ショーコは医療用の薄手の手袋をはめて、人差し指で潤滑油のワセリンをアキの『穴』に塗る。
「ひゃっん…」
 普段触れられたことのない部分に触れられて、思わず変な声が出てしまい、アキは赤面する。そんなアキの様子を楽しむかのように、ショーコはニコニコと笑いながら、座薬を挿入した。
「あ…ちょっ…本当待って…。いやーーーー!」

 高遠がモニタールームへ戻ると、真っ赤な顔を両手で隠して、半泣き状態でベッドの上にへたり込む、|事後《・・》のアキの姿があった。
「……シクシク…。汚された…」
「座薬ぐらいで大げさね、アキさん。|あっちの穴《・・・・・》には手をつけてないわよ。なんなら、|あっちの穴《・・・・・》にも指を入れた…」
「相馬先生…! これ以上、天道さんに追い打ちかけないでください! というか、|あっちの穴《・・・・・》って連呼しないでくださいよ…。まだ16なんですよ、天道さんは…」
 珍しく強めの口調で介入してくる高遠を見て、ショーコは、それもそうねと、アキをからかうのをやめ、本題を切り出す。
「さて、準備が整ったわけだけど、アキさん、大丈夫?」
「……ええ、まあ。もうここまでやったら、とことん付き合いますよ……」
「今から点滴の投与を始めるわ。投与が完了するまでに20分くらいかかるから、その間に、この後の流れと、未来へ行ってもらった後の話をするわ」
「はい…」
 ショーコと高遠は、病院の先生と看護師さながらの手際の良さで、テキパキと点滴の準備を始めた。
 今度は|仰向け《・・・》にベッドに横たわったアキの腕にゴムチューブを巻き、血管を浮かび上がらせ、ササっとアルコール消毒をし、針をプスっと突き刺し、ブドウ糖液の流れる量を調整した。
「さ、まずは、この後の流れを説明するわ。点滴投与が完了したら、そのまま時空転送|しょうち《・・・・》の中に入ってもらうわ。私と高遠くんとで、装置のスイッチを入れて、アキさんの量子情報をすぐに解析できる状態でスタンバイするから、しばらく――おそらく数分だと思うけれど、座薬の効果が切れるのを待ってちょうだい。座薬の鎮静効果で、眠くなるかもしれないけど、その時は眠ってもらって構わないわ。座薬の効果が切れると、アキさん、あなたは加速したくて、体が疼いて、いてもたってもいられなくなるわ。そうなったら、この時空転|しょう《・・・》装置の中を全速力で駆け抜けてちょうだい。本能の赴くままに、ね」
「あ、その全速力っていうのなんですけど、以前全速力で加速した時に、倒れちゃったことがあるんですけど、大丈夫ですかね…?」
「大丈夫よ、安心して。アキさんの過去のバイタルデータから、今のアキさんが出せるであろう限界まで加速した場合に必要な血糖量を算出した結果、通常の15倍の濃度のブドウ糖を500ミリリットル投与すればいいことがわかっているわ。ちなみに、今投与しているのは、通常の30倍の濃度だから、加速中に糖分切れで倒れることはないわ」
「わかりました…」
「アキさんが加速を始めたら、その様子を私と高遠くんとで、このモニタールームから観察して、最高速度に達した時に、アキさんの量子情報の読み取りを開始して、『未来へのテレポ』を始めるわ」
「そういえば、今更なんですけど、未来ってどのくらい先の未来へ行くんですか、私?」
「良い質問ね。そうしたら、このまま、未来へ行ってやってもらいたいことを伝えるわ。アキさんには、3年後の未来に行ってもらうわ。そして、そこで未来の私、『相馬ショーコ』に、『ある質問』をして来てほしいの」
「質問…ですか?」

 ――『箱の中身は生きてますか』
 ショーコから、頼まれた質問とは、アキが午前中にこの研究所に配達した箱の中身の生死を、未来のショーコに問うて欲しいということであった。
 というか、箱の中身って生き物だったんだと知り、少し驚く。
「えっと…、それを聞いて、どうするんですか?」
 アキは、ショーコに問う。
 高濃度のブドウ糖の点滴の効果で、アキの体は徐々に火照り、頭がぼーっとし始めた。
「今は、詳しく話すことはできないのだけれど、もし、未来の私が『|わからない《・・・・・》』と答えたら、そいつは|私じゃない何者か《・・・・・・・・》だということだけ覚えておいて。詳細は、未来から戻ってきたら必ず説明するわ。必ず…!」
 何故か、語気を強めて、アキを励ますように手をにぎるショーコ。
「……。どうしたんですか? ショーコさん……」
「………なんでもないわ。それと、アキさん。未来で起こることで、何かおかしいと感じたら、すぐにその場から逃げること。いいわね」
 |逃げる《・・・》なんて物騒なことを言い出すショーコであったが、座薬の鎮静効果か、少し眠くなってきたアキは、昔から逃げ足には自信があるし平気ね、なんて呑気なことを考えていた。
 点滴が完了する頃には、座薬の鎮静効果がすっかり効いて、アキはぐっすり眠りについた。
 ショーコは、ベッドで眠るアキのパーカーのポケットに小さなメモ書きを忍ばせた。

③ 天才 相馬ショーコ

 突然の告白に何が何だか分からず、状況を掴めずにいるアキは、きょとんとした表情で、目をぱちくりさせている。
「ああ、そうだったわ! 自己紹介がまだだったわね。私はフロンティア随一の量子力学研究者にして、稀代の天才、いえ、ある意味秀才…にして天才科学者の!」
『天才』という単語が二度も使われてる件はツッコミ待ちなのだろうか。
「シょぅまショーキョよ!」
 大事なとこで噛み倒す『天才』。
「相馬ショーコよ!」
 名前を噛んだという事実をなかったことにするかのように、真顔で二度目の自己紹介をする|相馬ショーコ《そうましょうこ》。
「は、はぁ…。って何であたしの名前知ってるんです?」
「ほほほ。この『フロンティア随一の量子力学研究者にして、稀代の天才、いえ、ある意味秀才…にして天才科学者』の! この私に知らないことはないわ!」
(なんだか面倒くさそうな人だなあ…)
「あ、えーと…、受取のサインをもらっていいですか?」
 さっさと受取のサインをもらって帰ろうとするアキに対して、
「待って待って、お願い、待って。あなたのことは、よーく知ってるの。3年前から目をつけてい…って、言い方が良くないわね。3年前から仲良くなりたいなーと思っていまして、いえ、仲良くというより、お知り合いになれたらなー…じゃなくて!」
 なんだか煮え切らない様子のショーコをジト目で見つめるアキ。
「ええい、端的に言うわ。あなた、未来に興味ない?」
「…?…未来ですか?」
「そう。未来。あなた、|異能力持ち《ホルダー》でしょ? あ、この言い方は失礼ね。あなた、特殊な〝才能〟をお持ちでしょう? あなたのその〝才能〟と、この大天才|シょぅまソうこ《・・・・・・・》の頭脳から生まれた、『時空転|しょぅしょうち《・・・・・・・》』…んっん! 『時空|転送装置《・・・・》』を使えば未来に行けるのよ!」
 またも天才とやらは自分の名前を噛み倒したが、そんなことは歯牙にもかけず、本題の『時空転送装置』とやらは、さすがに噛み噛みで話を進めては、伝わらないと思ったのか、きちんと言い直した。
「『時空|転送装置《・・・・》』は、量子テレポーテーションの仕組みを応用したものなのよ。量子テレポーテーションっていうのは、転送する物質の量子を測定して、その構成情報を抽出し、別の場所に配置された対になっている量子情報との差異を比較して、別の場所で物質を再構成するもので、これによってオリジナルと同じ物質が別の場所に転送されるという技術よ。実用化はされてはいないけど、実験ですでに何度も転送を成功させているわ。そして、物質が『加速する』状態で転送を行うと、時間すらも超越することがわかったのよ! そこで…!」
「えっと…、ちょっと待ってください。全然話が見えないんですけど、要するに、私の|異能力《ちから》と、その『時空転送…装置?』があれば、未来に行くことができるってことですか?」
「そうそう! 物分りがいいわね。ますます好きになったわ…、天道アキさん。どう、協力してくれる? くれるわよね?」
 ショーコは、目をキラキラと輝かせてアキに詰め寄る。
「…わかりました。とりあえず今、お仕事中なので、夕方からでも大丈夫ですか?」
「あ、そうね。そうよね。分かったわ。それで大丈夫。仕事が終わったら連絡ちょうだい」
 そう言うと、ショーコは白衣のポケットから名刺を取り出しアキに手渡した。
 名刺には「天才 相馬ショーコ」の文字と連絡先の電話番号が記されていた。
(職業欄、天才て…)
 心の中でツッコミを入れながら、夕方再び来ることを約束し、アキは研究所を後にした。
 ショーコのテンションに押し切られた、というのもあるが、アキ自身、未来へ行くなんていう、アニメ・マンガさながらのトンデモSF展開は、興味がないわけではなかったので、というより、内心すごく興味があったので、話だけでも聞いてみようと、協力を約束したのだった。

 アキは午後の配達を終え、定時で上がり、再び量子力学研究所――相馬ショーコの元へと向かった。
 余計な心配をかけさせたくないと思い、テツオと山下には行き先を告げず、こっそりと事業所を出た。
 研究所の中へ入ると、ショーコは、またも仁王立ちのポーズから振り返って、こちらをビシっと指さし、
「ようこそ! 我が研究所へ! 来てくれて嬉しわ、天道アキさん!」
 毎度毎度このお出迎えは儀式か何かなのだろうか。
「どうも…」
 普段はテンション高めのアキだったが、自分よりもさらにテンションの高い人間を前にすると、どうにも萎縮してしまう。
「早速、本題に入るわね。まずは、色々と不安もあると思うから、サクッと『テレポ』っちゃいましょう!」
「テレポっちゃう…?」
「今朝話した通り、時空転しょ…転送装置は、量子テレポーテーションの応用だから、まずは量子テレポってのを体験してみましょうということよ!」
「いいですけど、大丈夫なんですか? 転送に失敗してゲル状になったりしないですよね…?」
「ふっふっふ。そんなこともあろうかと、テスターを用意してるわよ。いでよ! 高遠くーん!」
 ショーコの掛け声と同時に、奥の方から、白衣を着た気弱そうな男性が出てきた。
「もう、ショーコさん…。人を悪魔召喚みたいに呼ぶのやめてくださいよ…」
 高遠《たかとう》と呼ばれたその男は、アキに向かって軽く会釈すると、気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。
「アキさん、あなたの不安を取り除くために、まずは今この場で、私の助手の高遠くんをテレポさせるわ。はい、高遠くん。さっさと入った入ったー」
 ショーコは、人ひとりが入れるくらいのカプセルの中に、トントントンとテンポよく高遠を押し込む。
「ちょっ、ショーコさん、そんなに強引にしなくても、すぐに入り…」
 などと、高遠が何かを話してる途中だったが、
「はい、スイッチオン! ポチッとな」
 と高遠がカプセルに入るとすぐに転送ボタンを押すショーコ。
 カプセルの前に設置された電子パネルに「量子情報解析中」の文字が流れ、カプセル内では、淡く黄色い光が高遠の体の周りを包みこむ。
 解析は数秒で完了し、電子パネルには「情報転送準備完了」の文字が表示され、次の瞬間、カプセル内の高遠は一瞬にして消えてしまった。
 アキは、目の前で人が消えてしまったという事実に、驚きと興奮がないまぜの状態で、ショーコに尋ねる。
「あ! あの! 高遠さんはどこへ?」
「んっふっふー、あっちよ!」
 ショーコはアキの後方に位置するもう一つのカプセルをビシっと指さした。
 カプセルを見遣ると、青白い光とともに高遠が姿を現す。
「…ますから! って、あれ? もう転送されちゃってたのか…」
 強引な博士にこき使われることに慣れてるのか、高遠はやれやれといった表情でカプセルから出てきた。
「これが量子テレポーテーションよ! どう? アキさん?」
「………すごいです! こんなことができるなんてアニメやマンガの世界だけだと思ってました!」
「よろしい。至って素直な反応、素敵だわ。今見てもらったように、量子テレポの研究自体は、すでに実用化に耐えうる段階まで来ているのだけれど、倫理観がどうのこうのって、文系学者の連中がうるさくって、実用化されるには至ってないのよ」
 やれやれとため息をつき、肩をすくめるショーコ。
「…量子情報を読み取って、別の場所で再構成するという仕組みだから、厳密には真の意味でのオリジナルは消失してしまってるんですよ…。言ってしまえば、コピー&ペーストのようなもので、倫理上の問題があるようです…。ってそんなこと言い出したら、僕なんて、相馬博士に何回転送させられたか…。オリジナルの欠片も残ってない〝コピペ人間〟ですよ…」
 虚ろな目で斜め下を見つめ、自嘲気味に、そう付け加える高遠。
「ま、そんな感じで、アキさんもテレポってみる?」
「はい! やってみたいです!」
 二つ返事でOKするアキに対して、ショーコはニコッと微笑むと、量子テレポのカプセルを開いて、ホテルマンのような紳士的な振る舞いで、アキを中へと案内した。自分のときと扱いが全然違うことに高遠は苦笑いを浮かべ、やや不安そうな表情を浮かべるアキに軽く手を振った。
 カプセルに入った瞬間、完全密閉空間で音が遮断され少し不安になったが、淡い黄色い光が体を包むと、落ち着いた気分になり、そのままフワフワした状態に心地よさを感じていると、一瞬だけ視界が暗転し、次の瞬間には、青白い光の眩しさで目を覚ましたような感覚に陥る。
 アキは自分の入った方|ではない《・・・・》カプセルから出てきた。意識もはっきりしている。
「どう? 初テレポの『お味』は?」
「…はい。最初は不安な感じだったんですけど、光に包まれてフワフワした気分になって、一瞬目の前が暗くなって、目を開いたら瞬間移動してて…。とにかく新鮮でした!」
「いい感想ね。その調子なら大丈夫そうね。さて、『テレポ処女』を捨てて貰ったところで、本題に入りましょうか」
「相馬博士、『テレポ処女』って…」
 高遠のツッコミの意味することがピンと来ていない表情のアキは首をかしげ、ショーコの話に耳を傾ける。
「時空転送は、量子テレポの応用で、高速で移動する物質の量子情報を解析したらどうなるのかという疑問から生まれたわ。きっかけは、初めてテレポで高遠くんを転送したときに、嫌だ嫌だとジタバタする手足が一瞬だけ遅れて転送されたように見えたことよ」
「あのときは、相馬博士を心底恨みました…。失敗したら死ぬどころか、この世から消失していましたよ…」
「それから、小型のドローンや、小さな虫で実験を重ねたところ、速度に比例して、転送されるまでの時間も長くなったわ。物質の状態はそのままで時間を超えて未来へと転送されたということね。理論上、転送される物質の速度が高ければ、その分、時間跳躍の『距離』も伸びる。そこで、アキさん。あなたの『加速力』の出番よ」
「待ってください。理屈はなんとなく理解できたんですけど、こんな狭いカプセルの中じゃ走れませんよ…、私」
「大丈夫よ。これは量子テレポーテーション装置。時空転送しょ…装置は、これとはまた別のものだから」
 そう言って、ショーコはモニターやら大型コンピュータの奥にある扉の前にアキを案内した。扉は強化ガラスで出来ており、中を見渡すことが出来た。
 扉の向こうは、長いトンネルになっていた。
「これが、『時空転送装置』よ!」
 珍しく、サ行を噛まずに、ババンと紹介するショーコ。
「仕組みとしては、量子テレポ用のカプセルをながーく引き伸ばしたものね。トンネルは全長10キロメートルあるわ。天道アキさん、あなたには、このトンネルを|『加速』して《はしって》ほしいの」

② 量子力学研究所

 二人は自宅近くの簡素な公園の前にいた。
 競走する時は決まってこの公園がゴールになっていた。
「はぁ…、はぁ…。危うく負けるとこだったぜ…。それにしても…、本当速くなったな、アキ…」
 勝負は僅差でテツオの勝利であった。
 額に汗をにじませ、若干息を切らしながらも、どこか満足気な表情で後輩の成長っぷりに感心するテツオ。
 一方のアキは、汗一つかかず、ケロッとした様子で、
「んー、やっぱり先輩は速いなぁ…。あともう少しだったのになー。あ、でもでも、先輩! また出ましたよ! 自己ベ、自己ベ♪ 先輩の奢ってくれたMOXコーヒーのお陰ですかね。すっごく調子よくって!」
 と、キロメートルアベレージ35秒を示す腕時計を見ながらピョンピョン跳ね回っている。
「やっぱり先輩と一緒に加速すると、楽しいです! タイムも伸びるし!」
「それは良かった…。ふぅ…、にしても…お前さん、本当、疲れ知らずなのな…。やっぱり|異能持ち《ホルダー》ってのは…」
 と言いかけて、口をつぐんだ。
 |異能持ち《ホルダー》という単語を出してしまったことに気を遣うテツオを気遣うように、アキはニコッと笑って、
「あ、気にしなくていいですよ。その呼び方、昔は嫌でしたけど、今は平気です。というか、むしろ誇らしいくらいです! |異能持ち《ホルダー》だぞー、どやぁ」
 えっへんとふんぞり返るポーズでおどけてみせた。
 テツオは、そんなアキの様子を安心した面持ちで見ると、温かな笑みを浮かべて、″どやポーズ″で静止しているアキの頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「も、もう、先輩! 子供扱いしないでくださいよぅ…」
「うるせー。16歳なんて、まだまだお子さまだろ。胸もペッタンコじゃねーか」
「もう、そういうのセクハラですよ! それに胸もちゃんと成長してるんですよ?」
 ほらと言わんばかりにパーカーの襟を引っ張って、胸元を見せようとするアキ。
「ばっ、ばか! そういうとこがお子さまだって言ってんだよ!」
 アキの胸元に出来た三角形の空間を手で隠すようにして、目をそらすテツオ。
「んふふ。照れちゃって。先輩かわいい♪」

 フロンティア各地で|異能力持ち《ホルダー》が出現したのは、ここ数年のことである。
 アキのように、体内の糖分をスピードに変換する異能力の他に、人の心を読むことの出来る異能力や、死者を蘇生したり、降霊術のようなことも出来る異能力もある|らしい《・・・》。
 〝|らしい《・・・》〟というのは、|異能力持ち《ホルダー》が出現して間もないこともあり、異能力の正確な分類がされておらず、あくまで|人伝《ひとづて》の噂レベルに過ぎないためである。
 当然、異能力に関する社会的な認知もまだまだで、フロンティアの人々は、異能力を持った人間のことを、『異能力を持つ者』という意味合いで『ホルダー』と呼び、まるで都市伝説を目撃したかのような奇異な目を向けていた。
 アキは、例の〝困惑のスポーツテスト事件〟以降、自分が|異能持ち《ホルダー》であることを周りに隠して生きてきたが、テツオと出会って――正確にはテツオの『|加速《はしり》』に魅せられて、自分の異能力を認めることができるようになった。
 そんなアキにとって、テツオは尊敬できる先輩であると同時に、冗談を言い合える優しい兄のような存在であった。

 公園のブランコに腰掛けて、いつもの何気ない雑談に花を咲かせていると、あたりはすっかり暗くなっていた。
「じゃあ、そろそろ帰るか。あんまり遅くなると、親御さんが心配するぞ」
「…ですね。そしたら、また明日、事業所で!」
 二人は、それぞれの自宅へ向かった。

 二人の勤務先である、スピードスターの事業所は、フロンティア第11地区―通称アクセル地区―の商業区にあり、二人の住む居住区から15キロメートルほど離れた場所にあった。
 居住区から商業区までは、10分に1本の間隔で定期バスが運行しており、人々は、この定期バス|のみ《・・》を移動の手段としていた。
 というのも、アクセル地区における交通機関は、区が運営する路線バスのみで、区の条例で自動車の個人所有は認められておらず、市街地において、人々は、徒歩で移動するのが基本であった。
 数年ほど前までは、街中に自動車があふれていたのだが、交通事故の多発や排ガスによる大気汚染が社会問題となり、アクセル地区はクリーンエネルギーを利用した区指定のバス以外の完全廃止に踏み切ったのである。
 廃止が行われた当初、不満や反発はあったものの、区長による『定期バスの完全無料化』が宣言されて以来、そうした不満はどこ吹く風で、アクセルの人々は文字通り〝タダ乗り〟できる状況を受け入れ、現在に至っている。
 人々の移動手段の変化だけではなく、この〝自動車規制〟で大きく変わったのは、〝物流〟である。
 それまでの物流は、各配送業者の所有する配送用トラックにより循環していたが、廃止の流れを受け、〝トラック〟なるものは街から消えた。物流は街を流れる〝血液〟のようなもので、円滑化のために区から特別許可が降りそうなものではあるが、何を隠そう、交通事故や排ガスの主な原因はこのトラックによるものだったのだから、そんな許可が降りるはずもなく、それどころか、真っ先に廃止対象となった。
 規制後、配送業者は、区指定の貨物バスに荷物と作業員を乗せ、各地へと荷運びを行った。
 ただ、これでは今までよりも時間がかかってしまうので、小型の荷物に関しては、人の手で配送するようになった。
 配送業者は各地からこぞって足の速い人材を集めはじめた。こうした荷運び専門の足の速い配達員のことは『運び屋』と呼ばれ、アクセル地区において、今では欠かせない存在となっている。
『運び屋』の誕生から程なくして、配送業界にも新たな動きが出てきた。〝自動車規制〟により大型トラックなどの膨大な設備投資が必要なくなり、足の速い『運び屋』さえいれば、すぐに開業できるため、配送業界への新規参入が活発になったのである。
 スピードスター便は、そんな新規参入業者の一つであり、『〝光の速さ〟でお届けします』をモットーに、どこよりも速く荷物を届けることで一定の評判を得ている業者で、今から10ヶ月ほど前に、マネージャーの|山下リョウ《やましたりょう》と運び屋である|真島テツオ《ましまてつお》の二人によって始められた。
 この山下という男、柔和な表情、温和な語り口とは裏腹に、かなりの〝ヤリ手〟で、ネットショッピング最大手のYAMAZONと直接交渉をし、通常配送よりも速い『お急ぎ便』よりもさらに速い『超お急ぎ便』のサービスを企画提案し、独占契約を取り付けた。また、運び屋の負担を考慮し、日当たりの受注件数を10件に抑え、代わりに高額な手数料を受け取ることで、事業として〝ペイ〟させていた。
 手数料は気にしないから、とにかく速く荷物を受け取りたいというニーズに応える形で、スピードスター便は他社との差別化を図り、独自の地位を築き、今では、YAMAZON以外にも、個別契約で荷運びをするようにもなった。
 なお、半年前にアキが運び屋として働くようになってからは、一日あたりの荷運び件数は、倍の20件になっている。

「山下さん、おはようございます!」
 挨拶と同時に、タイムカードを切るアキ。
「あ、おはよう、アキちゃん。出社早々申し訳ないんだけど、早速配達お願いしてもいいかな? 個別案件なんだけど」
 小脇に抱えられそうなサイズの小さめの箱をアキに手渡しながら、そう告げる山下。
「了解です! 早速行ってきますね! あ、そういえば、テツ先輩はもう配達ですか?」
「うん。午前中に〝超急〟が5件入ってて、アキちゃんと分担でって話をしたら、テツのやつ、このくらい俺がちゃちゃっと運んできてやるよって言って、すぐに行っちゃってさ…ハハ」
「もう、テツ先輩ったら無理しちゃって…。もっと私のことを頼ってくれてもいいのに…」
 ブーたれた表情のアキ。
「まあ、代わりに急遽入った個別案件をアキちゃんに任せられるわけだから、こっちとしてもラッキーだったよ。ハハ…。ああ、届け先データは時計に同期しておいたから、よろしくねー」
「はい! それじゃ、行ってきますね!」
「はーい。気をつけてねー」
 アキはポケットから氷砂糖を取り出し、口に放り込むと、颯爽と事業所を後にした。
 時計を見遣ると、届け先には『量子力学研究所 相馬ショーコ』と書かれていた。

 事業所のある商業区から居住区と反対方向に10キロメートルほど離れた『開発区』の外れに、その建物―量子力学研究所―はあった。
 コンクリート打ちっぱなしの重厚な外観に、「NEUMANN」という文字と「箱の中に入れられた猫」の絵が刻印されていた。
(……にゅー?まん…? それに箱?猫…?)
 何やら奇妙な構えの建物であったが、時計の示す住所から荷物を届ける建物に違いなかったので、アキは恐る恐る正面の入口に近づく。
(んーと、インターホンとかはどこにあるんだろう?)
 入口付近の壁を見渡すも、それらしきものは見当たらず、さてどうしたものかと一息ついたところで、目の前の扉が急に開いた。
「わ! ビックリした!」
(入っていいの…?)
 中に入るが、誰も出てくる様子もない。そもそも、エントランス的な場所もなく、入ってすぐ目の前にあるのは地下への階段だけだった。
 階段には足元が見える程度の最低限の照明しかなく、コンクリートの無機質さと相まってなんとも不気味な感じで、入口から差し込む陽の光が、辛うじてここが現実世界であると認識させてくれる唯一の安心材料だった。
 恐る恐る階段を下るアキ。
「すみませーん…、スピードスター便です…」
 雰囲気に気圧され、何故か小声になりながら、内心ビクビクしながら、階段を下っていく。
 階段は途中からカーブし始めた。どうやら螺旋階段のようだ。
 螺旋状に地下へと『潜る』こと数歩。
 アキは、この螺旋階段が結構な長さだとしたら、配達時間にロスが出てしまうと気づき、階段横に設置されている手すりに手をかけ、重心を調整しながら、階段を『滑り降りた』。
 螺旋状に地下へと『滑り降りる』こと数秒。
 アキの心配は杞憂に終わり、すぐに目の前に入口が見えた。
 その入口は、いかにも〝研究所〟然とした自動ドアで、アキが入口前に立つや否やすぐに開いた。
 中は、無数のモニターと大型コンピュータ、それに、人ひとりが入れそうなサイズのカプセルのようなものもあった。
 モニター前には、白衣を着た女性が仁王立ちしており、振り返ってこちらをビシッと指差して一言。
「待っていたわ、天道アキさん。ようこそ我が研究所へ!」
 まさかの〝お出迎え〟に面食らったアキは、お届けの挨拶も忘れ、
「あ、どうも…」
 とだけ。
「あ、その荷物はその辺の床に適当に置いといてもらえる? ポイポーイって。で、早速なんだけど、アキさん、私…」
「あなたのことがほしいの…」
「え?」

① 加速少女アキ

 フォンッ! ヒュン! シュタッ!
「ふぅ… 5分52秒っと。まだまだね…。こんなんじゃ、先輩には追い付けないなー…」
 少女はそうつぶやくと、小脇に抱えていた段ボール箱を玄関口の前に置き、インターホンを押す。
 ピーン――ポーン。
 やや間延びしたインターホンの音から数秒後、玄関口から根暗そうな男が出てきた。
「こんちわー、スピードスター便です。YAMAZONさんより、〝超お急ぎ便〟のお荷物です。こちらにサインをお願いします!」
 少女がそう言い、手に持っていたボールペンを手渡すと、男は届いた荷物を早く開けたいのか、ぐちゃぐちゃっと名字を書きなぐり、いそいそと部屋へ戻っていった。
「まいどー。さて、戻りますか…」
 荷物を届け終わった少女は、ポケットから取り出した氷砂糖を口に含み、両腕をクロスさせて筋肉を伸ばし、両手のひらで太ももをさすり、腕時計のタイマーをピッと鳴らし、軽く屈伸運動をするや否や、ビュン!という轟音とともに、階段の踊り場からそのまま外へ向かって飛び出した。
 ちなみに、ここは5階建てマンションの3階部分である。
 陸上競技の走り幅跳びのように、空を切るように両腕を回し、一段低い隣の建物の屋上へと着地し、そのまま加速。腰の高さほどの落下防止用の手すりを、ハードル選手さながらの前傾姿勢で飛び越し、着地した足で屋上の縁を蹴り、体を『くの字』にして、そのまま隣の定食屋の二階部分―おそらく店主の住居だろうか―の窓枠に指をかけ、勢いを殺し落下。真下にある『お食事処』と書かれた看板に、一瞬だけぶら下がり、落下のスピードを落とし、地面へ着地。
 着地の姿勢から復帰するや否や、ヒュン!と気持ちの良い風切音とともに、街中を駆けていく。
「…うーん! 街の中を自由に走り回れるなんて、やっぱり、この仕事天職だわー!」
『運び屋許可証』と書かれた腕章をチラ見し、ニコッと笑って、少女はどんどん加速し、あっという間に遠くへと消えてしまった。

「ただいま戻りました!」
 少女は息を切らす様子もなく、『スピードスター』の事業所へ戻り、配達完了の報告を入れた。
「やけに遅かったじゃないか、アキ」
 中から出てきたのは、
 少女―アキ―が、〝運び屋〟の先輩として尊敬する男だった。
「もう、テツ先輩のいじわる! 一応、キロメートルアベレージは、自己べなんですけど!」
 そういって、ブーっとふくれっ面をすると、テツ先輩は、ごめんごめんと柔らかく笑った。
「アベレージ、どのくらいだったんだ?」
「38秒です!」
「おお、なかなか速くなったじゃないか」
 尊敬する先輩からの賛辞に気をよくしたアキは、
「でしょ?でしょ? もっと褒めて褒めてー♪」
 くりっとした目をキラキラさせながら、ふざけて甘えてみせた。
「すごいぞー、アキ。半年前ウチに来たばっかりのときは、アベレージ55秒だったもんな、本当、速くなったな」
「えへへ…」
 テツの屈託のない言葉に、ほんの少し頬を赤らめて、ニコニコしているアキ。
「まー、でも! 俺の方がまだまだ速いけどなー!」
「もう先輩…。でもでも! すぐに追いつきますからね! 先輩と違って私、まだまだ若いですし。伸びしろありますし!」
「何をー! 俺だって、25だし、まだまだ若いぞ!」
「25って四捨五入したら30歳じゃないですか。もうおじさんの領域に片足突っ込んじゃってますよ」
「おじ……、ってお前、言っていいことと悪いことが、だな」
『おじさん』というワードが図星をついたのか、テツは顔をピクピクさせた。
 そんなテツを見て、アキは流石に言い過ぎたと思ったのか、両手をグーにして顎に当て、首をかしげ、上目遣いで、
「冗談ですよ。先輩♪」
 あざといフォローを入れた。
 と、いつものように互いに軽口を叩く二人に、奥のデスクから声がかかる。
「ハハ…。アキちゃんとテツオは本当いつも仲がいいね。二人とも、もう時間になったから、上がっていいよー」
「あ、山下さん、お疲れさまです。えっ、もうそんな時間ですか」
 事業所の時計を見遣ると、定時の5時を指していた。
 糸目で柔和な表情の、山下と呼ばれたその男は、デスクまわりの片付けをしながら、会話を続ける。
「うん。今日もお疲れさま。それにしてもアキちゃん、本当、配達速くなったよね。このままのスピードで成長すれば、音速を超えちゃうかもね」
「音速超えですか! 『ビュン、音を置き去りにした』―みたいなことができちゃいますかね! いいなー、そうなったら楽しいだろうなー、超気持ちいいだろーなー」
『音を置き去りにする』というアニメやマンガさながらのシチュエーションを現実にできる自分を想像し、ニヤニヤしているアキ。
「音速どころか、光速…光の速さを超えちゃったりして。そうなったら、時間すら超えちゃうことになるね。ハハハ」
 柔和な表情を崩さず、そう続ける山下に対して、テツオが茶々を入れる。
「『時を駆ける少女』ってか? アキの柄じゃねーな」
「もう、テツ先輩!」
「悪い悪い。帰りに、お前の大好きなMOXコーヒー奢ってやるからさ」
「え、いいんですか!? なら、許します!」
MOXコーヒーの奢りを取り付けたアキは、るんるんとした気分でタイムカードを切り、テツオとともに、事業所を後にした。

 天道《てんどう》アキが自分の異常さ―超人的な『異能力』―に気づいたのは、アキが中学校に上がったときのことだった。
 小さいころから運動好きで、小学校時代も、いつも走り回って遊ぶようなやんちゃな子どもで、運動会のリレーのアンカーを任されるくらいには、足の速さには自信があった。
 が、正確なタイムというものを測ったことはなく、人より足が速い、くらいにしか思っていなかった。
 中学校に入学してすぐに、スポーツテストなるものがあり、そこでアキは自分の異常さに気づく。
 50メートル走のタイムが7秒を切っていたのだ。
 測り間違えかと、体育教師がストップウォッチを変えて、二度目を計測すると、なんと今度は、6秒前半、5秒台に迫るタイムだった。
 確かに幼いころから足は速かった。が、このタイムは異常だった。中学生女子の平均が9秒台、男子であっても8秒台。陸上競技に50メートル走という正式種目はないが、仮にあったとするなら全国記録モノである。
 測定した教師も、周りの生徒も、アキの俊足に感嘆の声を上げた。
「天道、すごいなー。お前、陸上部行き決定だな」
「アキちゃん、すごーい!」
 人に褒められるのが大好きなアキは、自分の能力をみんなが認めてくれることが嬉しくてたまらなかった。
 ここまでは、まだよかった。
 アキの異常性はこれだけにとどまらなかった。
 スポーツテストの最終種目1500メートル走で、とんでもない記録を打ち立ててしまったのだ。
 1500メートル走、2分30秒。
 中学生女子が50メートルを6秒台の速さで走れるだけでも異常なのに、その30倍の距離を2分30秒(=150秒)で、―すなわち50メートルを5秒ジャストのペースで、走れてしまったのだ。キロメートルアベレージにして1分である。
 異常さというのは、そう、ペースが落ちないのだ。いや、それどころか、ペースが上がって、途中から加速していたのだ。
 しかも、ゴールの際には息切れ一つしていない状態であった。
 褒められるのが嬉しくて、皆に褒められたい一心で、全力で1500メートルを走り終えたアキが目にしたものは、周囲からの羨望の眼差しではなく、困惑の表情であった。
「ア、アキちゃん…、す、すごいね…」
「おいおい、速いってレベルじゃねーぞ、なんだよあれ…」
「…天道、す、すごいな…! 1500メートルのワールドレコードだゾ、ハハハ…」
 この時の周りの反応から、アキは自分の異常さを初めて認識した。
 と、その瞬間、目の前が真っ暗になり、その場で倒れ、病院に運ばれた。

「軽度の低血糖症ですね」
 病院のベッドで横になり、ぼんやりと回復していく意識の中で、そう聞こえてきた。
「あの…、うちのアキは大丈夫なのでしょうか…?」
 カーテンの向こうにはどうやら、お母さんが来てるらしい。
「まあ、過度な運動は控えることですな。あと、血糖値が極端に下がりやすいので、食事を…。あとですね、血液検査の結果、血中のヘモグロ……が少し特殊でして……、一度大きな病院で精密検査を……」
 起き抜けのぼんやりとした意識の中で、『検査』だとか、『ヘモ』とか『グロ』とか、何やら不穏な言葉が聞こえてきて、少し怖くなった。
 その後、大きな病院で検査をすることになり、どうやら私は普通の人間とはかなり異なる性質を持った人間だということが分かった。
 医者によると、血液中の酸素を体中に運ぶヘモグロビンが特殊な形をしており、体内の糖分を過剰に吸収してしまうそうだ。
 医者からのアドバイスとしては、
 過度な運動は控えること。
 糖分をたくさんとること。
 の二点だった。
 私は、この〝困惑のスポーツテスト事件〟(と、私は呼んでいる)以降、表向きには、また倒れて、家族や友達など周りを心配させないために、本当のところは、あの困惑の目を向けられるのがトラウマになって、全力で走るのをやめた。
 50メートル走も7秒台に抑えた。どうやら、女子で7秒台は、それでもそこそこに速いらしく、陸上部を始めとする運動部の先輩達から熱烈アピールを受けたが、『病気』を盾にスルーし、運動部には入らなかった。皆の前で走る姿を見せるのを極力避けるようにした。
 そうした〝努力〟の甲斐あって、周りの皆は、あのスポーツテストの日のことを何かの見間違いだったのだと思うようになり、困惑の目を向けられる心配もなくなっていった。
 2つ目のアドバイスにも従って、甘いものをなるべく摂るようにもした。
 お母さんが私の体のことを心配して、毎日学校に行くときは、今では欠かせなくなっている、氷砂糖を持たせてくれた。
 お父さんが学校に事情を話してくれて、学校にいる間も好きなときに氷砂糖を食べていいことになった。
 ただ、私としては、〝病気〟のことや、〝困惑のスポーツテスト事件〟を皆に忘れてほしくて、なるべく周りにばれないように、氷砂糖はこっそり食べることにした。
 お陰さまで、口の中に何も入れてないフリをするのがうまくなった。舌使いがうまくなったとも言える。
 が、ここで一つ問題が出てきた。
 甘いものを食べると無性に走りたく―正確には『加速』したく―なってしまうのだ。
 小さい頃から、甘いものは好きだったし、その分適度に走り回っていたので気にならなかったのだが、意識的に走らないように、加速しないようにするようになってから、体がウズいてしかたなかった。
 なんだか、本能的に体が〝『加速』することを欲しがってる〟みたいで、どうしても我慢できないときは、休み時間にこっそり学校を抜け出して『加速』した。
 幸いというか、なんというか、〝足が速かった〟ので、10分休みでも、ゆっくり学校の裏門まで歩いて、ささっと2キロメートルくらい走って戻ってくる―往復で4キロメートル走ってくる―のも余裕だった。
 昼休みなんて、50分もあったので、10キロメートル離れた隣の区まで走って往復した。給食でデザートなんか出た日には、2往復した。
 汗もかかないし、息も切れないから、周りには全然バレなかった。
 家に居るときも、両親を心配させたくなかったから、なるべく走ってる姿を見せないようにしていたが、誕生日やクリスマスとか、あまーいケーキが出された日には、もういてもたっても居られなくて、両親が寝静まったのを見計らって、30キロメートル離れた2つ隣の区まで往復することさえあった。
 そんな風に隠れて、こそこそ『加速』する生活を3年ばかり続けていたら、足もどんどん速くなり、中学を卒業するころには、キロメートルアベレージは1分を切った。時速60キロメートルだ。

「…ーい、…ぉーい、おーい。アキちゃーん?」
「え!? あ、はい! なんですか?」
「『なんですか?』じゃないよ。どうしたんだ? ボーっとして。糖分切れか?」
 ほらよっと手に持ってるMOXコーヒーを手渡されたアキは、あたふたと受け取った。
「あ、ありがとうございます…」
「ちょっと昔のことを思い出してたら、ボケッとしちゃって……。 あ、MOXコーヒーだー♪ やったー♪」
 受け取ると同時にプルタブを開け、ごくごくと飲み始めるアキ。
 その様子を満足そうな表情で、見つめるテツオ。
 その手には、アキと同じくMOXコーヒーが握られていた。
 MOXコーヒーは黄色いデザインの缶コーヒーで、その主だった特徴は、「練乳入り」というコーヒーとしてはいささか邪道的な『甘さ』にある。
 一般人は、その甘さゆえに敬遠しがちであるが、体質上、糖分の摂取が必要不可欠なアキにとっては、手軽な糖分補給のできる貴重な『糖分源』の一つである。
「あ、そうだ! テツ先輩! せっかくだし今日も家まで競走しましょうよ! MOXコーヒー飲んだら加速したくなっちゃった♪」
「お、やるか? いいぜ。久々に本気で勝負してみるか!」
 アキからの挑戦を快諾したテツオは、手に持ったMOXコーヒーを一口で飲み干し、アキから受け取った空き缶と一緒に、自販機横のゴミ箱へと投げ入れた。
「それじゃあ……、いくぞ……!」
「はい!」
 その言葉がスタートの合図となり、二人は一気に駆け出した。