自己PR用文章

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はじめまして。上野大和といいます。

【名前について】

大和という名前は今は亡き祖父が命名してくれたもので、
1.「大」きな「和」を以って人を繋いでいける人間
2.「大和」魂を胸に日本人としての誇りを持った人間
になってほしいという願いで付けてもらった名前です。
私自身、この名に誇りを持っており、そのような人間になれるように常に自身を成長させていきたいと考えております。

【略歴】

私のこれまでの略歴といいますか、私自身の足跡を説明致します。
少々長くなりますが、良ければお付き合いください。

■ 東大入学まで
■ 東大在学から就職活動期まで
■ パチスロ中毒生活から東大卒業まで
■ 3.11を契機にスロプロへ
■ スロプロ生活の成功とそこで得たもの
■ スロプロからトレーダーにはなれず
■ 家計の管理とカフェの立ち上げ
■ 実家を出て友人とのシェアハウス
■ いっぺん働いてみるか
■ 本当にやりたかったことへ


■ 東大入学まで

生まれは父母の実家である福岡県筑後市なのですが、父親がトヨタ自動車に勤務していたため、小学校低学年まで愛知県豊田市で過ごしました。
その後、父の九州への転勤に合わせて、福岡県の鞍手郡という片田舎へ移住しました。

愛知県の学校にいた頃は、至って平凡な学生でしたが、都会の学校から田舎の学校へ移動したことで、
勉強の進度に落差があったことが幸いして、鞍手郡の学校では勉強の成績がよく、またそれに心地よさを感じていたため、
自然と勉強ができる、いわゆる”優等生”ポジションを獲得し、そのまま地元の公立の進学校(東筑高校)へ入学しました。

進学校は、各地域の”優等生”の集合体であるため、片田舎の”優等生”は井の中の蛙に過ぎず、成績は中の下へ転落。
そんな自分を認めたくない一心で、「俺は東大へ行くから」と成績の伴わない「口だけ人間」として3年間を過ごし、当然のごとく浪人。
高校時代の担任に「お前には無理だ」と否定され続けたことが悔しくて、
浪人時代は1日13時間の勉強を毎日継続して、それこそ”死ぬ気”で頑張りました。
が、結果は惨敗。滑り止めに受けた早慶も全滅し、予備校のチューターに無理やり受けさせられた明治大学政治経済学部にギリギリ合格。
この時の記憶は今でも鮮明に覚えていて、続々と届く不合格通知を前にして、「死のうかな・・・」なんてことを考えていました。
人生で初めて味わう挫折だったのかもしれません。

精根尽き果てて、2浪する気力もなく、目の前の現実から逃げるように、唯一残った進学先である明治大学に進学。
明大では、受験での失敗は大学で取り戻そうと、1年時からゼミに入ったり、英語の特別クラスへ参加したりと、
”普通よりちょっと意識が高い”大学生として、それなりに充実した毎日を過ごしました。
そんな生活を続けていたところに、運命的な出会いを果たします。
1年時の夏休み期間に、ゼミの先輩の家で飲み会を開いていた時、その先輩の知り合いの「やまなかさん」という女の子を紹介されました。
ありきたりな展開なら、その子に恋愛感情的な意味で惚れて、猛勉強という展開なのでしょうが、そうではありませんでした。

彼女曰く、

・両親はおらず、親戚のツテで弟と二人で渡米
・渡米先の中学でテニスに打ち込み、全米選手権で準優勝
・高校1年時に帰国し、高校から始めた水泳で国体の決勝に進出
・高校時代は、トレーニングを兼ねて、自宅から往復40kmの道のりを自転車通学
・高校卒業後は、服飾関係の仕事へ従事し、パタンナーとして活躍

こうした彼女の境遇、努力の軌跡を聞き、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けました。
しかも、自分と同じ年齢ということもわかり、同年代でこんなにもすごいことをやっている人がいるという事実に心を動かされ、
「なんてかっこいい生き方をしているんだ、自分にもこんなかっこいい生き方が出来ないだろうか」と真剣に考えるようになりました。

その運命的な出会いの後、三日三晩、自分には何ができるだろうかということを考え、
行き着いた答えが、「受験勉強でてっぺんを取る」ということ、つまり、東大合格への再挑戦だったのです。


再挑戦を決意してから、自分の脳内でスイッチが切り替わり、
かつての挫折と真正面から向き合い、失敗の原因追求と、戦略的な解決策を練りました。
その結果、目標を達成する際に必要なことは、

1.根拠のない絶対的な自信を持つこと
2.それを根拠付ける客観的な分析

の2つが必要だということに行き着きました。
この2本の柱を軸に、

・誰がやっても合格する勉強法

を、質と量の両面から徹底的に精査し、
独自のカリキュラムを組み、実行しました。

また、

・受験再開を決意したのが、8月中旬、
・実際に勉強を再開したのが、9月の初旬、
・明治大学は休学せずに講義をこなしながら、
・受験にかかる費用はアルバイト(ホストクラブ)で稼ぐ、

など、圧倒的に時間が足りない状況でしたので、

・徹底した質(=密度)の追求

を意識し、24時間寝ても覚めても、常に脳が勉強しているという極限の状態を維持しました。

さらに、勉強計画がずれることも想定し、ずれた場合の修正のための猶予期間を設けるなど、隙のない戦略を立てました。

その結果、東京大学文科二類へサクッと合格!

とはならず、前期試験では、残り13点足りずに不合格。
足切りラインギリギリで受験可能になった後期試験で、
下から2番目の成績で滑り込むことに成功しました。


■ 東大在学から就職活動期まで

ある意味での逆転合格で東大へ入学し、それまでの緊張の糸が途切れてしまったせいか、
東大入学後は完全に腑抜けてしまい、1年生の前期で遊び呆けて、留年が決定してしまいます。

流石にこのままではマズイと、1年生の後期からは、自身の受験経験を活かして、家庭教師や塾講師のアルバイトに励み、
大学卒業までの6年間、100人以上の生徒の指導にあたり、彼らの逆転合格に寄与しました。

大学3年時には、友人とともに、ITの”最先端の働き方”を見てこようと、
学内の有志を集めて、アメリカ西海岸のシリコンバレーツアーを企画し、
GoogleやAdobeなどのITの世界企業や、MeeboやEvernoteなど当時急成長していたベンチャー企業へ訪問し、
最先端のIT企業の社員の方が、どのようなスタイルで働いているのかを肌で体感してきました。

また、当時(というか、今でもそうかもしれませんが)、東大経済学部の花形の就職先として、
マッキンゼーなど戦略系コンサルや、ゴールドマンサックスなどの外資系金融機関への憧れもあり、
JPモルガンのサマーインターンに参加するために面接を受けました。
その面接に際して、

「上野さん、仕事というのは、あなたが思っているほど楽しいものではないよ」

という面接官の言葉を受け、

「ああ、こんな人がいる職場では働きたくないな」と思い、
コンサルや外銀への就職活動は一切やめ、
自分が本当にやりたいことをやろうと方向転換することにしました。

当時ルームシェアをしていた友人と自己分析をした結果、
幼いころから好きだった、TVゲームに携わる職場で働きたいという結論に至り、
大小問わず、様々なゲーム会社へエントリーをしました。

大学のネームバリューもあってか、どの企業もエントリー自体はすんなり通り、
最初のグループ面接を受けたスクウェア・エニックスの開発職で、
「あなたを野菜に例えると何ですか?」という質問を受け、
皆、あたふたしながら、必死に”野菜の取り合い”をし、

Aさんは「私はごぼうです。細く長く頑張ります」だとか、
Bさんは「私は大根です。太く粘り強く、辛口で・・・」云々。
Cさんだった私は、「ああ、大根とられちゃったなー」とか思いながら、
「ガボチャ」を選択し、「見た目はいかついですが、甘くて繊細です」とか訳の分からないことを言いながら、
俺は一体何をやっているんだろうと、就職活動自体が急に馬鹿馬鹿しく思えてきて、
それから、一切のエントリーを取り下げました。

今思えば、面接官のお茶目な質問だったのでしょうが、
当時、連日自己分析をして、自分の存在価値というものに、ゆらぎを感じていた若い自分にとって、
こうした、”茶番”に付き合うほどの心の余裕がなかったのかもしれません。

そんなこんなで、就職活動を一切やめ、半ば自暴自棄になっていた頃に、
友人から”悪魔のささやき”がありました。

「一緒にパチンコ打ちにいかない?」


■ パチスロ中毒生活から東大卒業まで

最初は軽い気持ちで、遊び感覚で始めたパチンコでしたが、
人生の目標を失いかけていた当時の自分にとって、
パチンコを打つ行為は、現実逃避の格好の対象となってしまい、

「ただ生きているだけなら、パチンコのハンドルを握ってた方がまだマシなんじゃないか」

そう考えるようになってからは、今まで塾や家庭教師で貯めたお金をジャブジャブつぎ込むようになりました。
特に、パチスロを覚えてからは、そのゲーム性にのめり込んでしまい、
貯金だけではなく、今月払わないといけない家賃にまで手をつけるようになり、
お金がどうしようもなくなった時には、上京の際に祖母が渡してくれた、500円貯金箱を叩き割って、
500円をかき集めて支払いをしたりしていました。

流石に、借金してまで、とはならなかったのですが、
入ってくるお金を限度いっぱいまで使い果たしていたあの頃の自分は、紛れもなくパチンコ・パチスロ中毒者だったと思います。

そうした状況の中、就職もままならず、卒業も危ういという状態になり、
「人生どうしようかなー」と思っていたところに、
アルバイト先の学習塾の社長から、ウチで社員として働かないかという誘いを受け、
青山にある個別指導塾で正社員として働くことになりました。

正社員といっても、やることはアルバイト時代の延長で、
授業自体はそつなくこなしていましたが、
大学生時代と違うことといえば、入った給料を全額パチスロに突っ込むこと。

こうした、ダメな自分をごまかしながらも、なんとか仕事をこなし、
また、この時、留年していた影響で、大学に在籍した状態でしたが、
社長の好意で、働きながら卒業に必要な単位を取得し、なんとか卒業することが出来ました。


■ 3.11を契機にスロプロへ

アルバイト時代からお世話になっていた社長でしたが、
自分が正社員として働き始めてから、だんだんとソリが合わなくなっていき、
ちょっとこのまま働き続けるのは厳しいなーと思っていた矢先、例の3.11の大震災が起きました。

震災の影響がもろに出たのは、東北でしたが、
東京でも、かなりの揺れがあり、「命の危険を感じる天災」というのものを経験し、
恐怖すると同時に、人間なんてちっぽけな存在が自然の前でいかに無力かということを痛感しました。

それと同時に、ショックだったことが、
震災発生時、福島原発による放射能の影響など、情報が錯綜しており、
「東京もヤバイんじゃないのか?」という空気が流れる中、
通勤する際の地下鉄のホームで、いつもと変わらずに通勤するサラリーマンの集団を見て、
「働くってなんだろう、命を賭してまで働く意味はあるのか」など、
何かの組織に属して働くことへの疑問が生じてきてしまい、
きっぱり仕事を辞める決意をし、辞表を出し、退職。
震災の影響もあるため、一度福岡の実家へ避難することにしました。

実家に帰省後、何か収入を得ていかないといけないと考え、
目をつけたのが、パチスロ中毒者としての自分自身でした。

これだけ、中毒的にのめり込めているものであるなら、
きちんと分析をして、徹底した立ち回りを確立すれば、
パチスロで稼いでいけるんじゃないかと考え、スロプロとして生きていくことを決意します。

震災の前後くらいから、たまたま勝ちが続いたことも幸いして、
その勝って得た軍資金30万を元手に、スロプロ生活を始めることになりました。


■ スロプロ生活の成功とそこで得たもの

1年目は半信半疑で、手探りの状態でしたが、着実に立ち回りを確立していき、
2年目には、生活していける確信を得て、ほぼ毎日のようにパチンコ店に通いました。
3年たったころには、累積の収支はプラス600万を超え、手元には300万の貯金が出来ていました。

このスロプロ生活で結果を出すことによって、中毒者としての自分を完全に克服しただけでなく、
様々な副産物を得ることが出来ました。

1つは、徹底した数値管理能力です。

2016年現在、パチスロで勝つことはそこまで難しくないし、誰でも出来るという風潮が主流ですが、
自分がスロプロを始めた2011年は、パチスロは、言ってしまえばギャンブルであり、
「勝っている」という人間は、勝った時のことを大げさに言ってるだけで、
トータルではみんな負けているという考えが支配的でした。
自分は、実家の両親を説得する材料として、データできちんと示すということを約束していたため、
毎日打った台の記録をつけ、Googleスプレッドシートで閲覧出来る仕組みを作りました。

何月何日に、どの機種を、どういう状態で打って、投資がいくらかかって、何枚回収し、トータル収支がいくらになっているのか、
こうしたデータをシートに記録していきました。
この時に、Googleスプレッドシート(エクセル)の関数など、表計算の基本的なスキルはほぼマスターしました。

また、思ったような結果が出ない時に、集めたデータを属性ごとに抽出し分析して、解決策を講じるなど、
数値を管理し、分析し、戦略を打ち出すということを日常的にやるようになりました。

2つ目は、組織や場所に縛られない生き方の確立です。

パチンコ店は、いまや日本全国どこにでもあり、そこで収入を得ることが出来る力を身につけたことで、
会社など何らかの組織に属してお給料を貰わずとも、自分の好きな日に、好きな場所でお金を稼ぐことが出来るようになりました。
スロプロを始めた当初は、もしうまく行かなかったら、最悪、家庭教師や塾の先生をやればいいかと”保険”をかけていたのですが、
スロプロで生計を立てられるようになってからは、最悪、スロットやっていけばなんとかなるか
というように、”保険”としての仕事すら必要なくなりました。
これによって、「お金のために働く」という考え方から解放されました。


■ スロプロからトレーダーにはなれず

スロプロを始める時に立てた目標は、スロットで200万貯めて、それを元手に株やFXのトレーダーとして生きていくということでした。
そして、実際に200万どころか、300万貯めることに成功し、いざトレードで増やしていこうと考えたのですが、
ここで、大きな疑問が生じてしまいました。

「果たしてお金を増やすことに意味はあるのか」と。

スロプロ時代、毎月の親への家賃や、日々の生活費だけでなく、ほしいものなどもたくさん買いましたが、
今の生活で十分満足だし、これよりもほしいものってないなーと日々思っていました。
この、言ってしまえば「物欲のない自分」にとって、お金を増やしていくことに意味はあるのかという疑問は厄介で、
お金を増やすことを目的とするトレード自体にのめり込むことが出来ませんでした。
その結果、スロプロと平行して行っていたトレードの期間、2年弱で、マイナス30万という、
箸にも棒にもかからない結果となり、トレーダーとしての生活は断念することになりました。


トレード以外にお金を増やす方法として、ネットビジネスなども齧ってみようと、
スロット貯金300万を持って、上京し、ネットビジネスで成功していた東大時代の友人から、
半年ほどつきっきりで教えてもらったりもしましたが、結局、お金への欲求がないため、
頭ではわかるけど、実行するのを躊躇してしまい、結局鳴かず飛ばず。

その後、貯金を半分に減らして再度実家の福岡へ帰省し、スロットを打ちながら、
これからどうしていこうかなーと考えていたところ、実家で問題が発生していました。


■ 家計の管理とカフェの立ち上げ

私の両親は、お金の管理に無頓着で、収入に対する支出のバランスであったり、
先々に必要な支払いのための資金を用意するということを気にしない質で、
父がトヨタに勤めていて、年収で1000万近くもらっていたにも関わらず、いつも家計はギリギリの状態でした。

私が幼い頃にも、家計の問題が何度か勃発しては、急場しのぎで対応していたようですが、
父親が定年退職をするにあたり、収入が年金収入のみになり、今までの感覚で家計を回していたら、
5年も持たないんじゃないかという状況になっていました。
また、今までの急場しのぎのツケとしての、200万近くの借金も見つかりました。

そこで、私が、スロプロ時代に培った数値分析能力を親の家計管理に応用し、
毎月の支出の分析と、支払い方法の最適化を行った結果、
半年で200万の借金を全て精算しただけでなく、さらに200万の貯蓄に成功しました。

また、父が定年を迎えたことで、老後の生きがいとして、
自宅横のガレージを改修してカフェを経営したいとのことで、
そのまま、カフェの立ち上げに必要な手続きや経理諸々を引き受けることになりました。

ところが、あくまで趣味程度でやりたいと考える父からすると、
私の徹底した数値管理などは、窮屈だったようで、話が合わず、結局手を引くことにしました。


■ 実家を出て友人とのシェアハウス

実家での家計管理を終え、カフェ経営から手を引くに至る頃、
ささいなことで両親と言い合いになり、その際に、

「真っ当な職にもつかずに生きていこうとしているお前は何かの病気なんじゃないのか」

という衝撃の告白を受け、実家を出ることを決意しました。

スロプロとして得た収入で家にお金を入れていたことも、
なんだかよくわからない「汚い金」くらいの認識しかなかったようで、
幼い頃から反抗期など一切なく、両親にとって”良い子”であった自分にとって、
この告白はかなりの衝撃でした。

売り言葉に買い言葉で、感情的になって放った言葉ではあったと思いますが、
人間、感情的になった時に発する言葉ほど、本音であるのは間違いないので、
表面的には、「お前の好きなように生きたらいい」と言いながらも、
本音では、「まともに働け」と常日頃から思っていたんだなーと確信しました。

それがわかってしまった以上、一定の距離を置くべきだと感じ、
今年の4月に実家を出て、現在、高校時代からの親友とシェアハウスをしております。

■ いっぺん働いてみるか

実家を出てからも、しばらくスロプロとして生計を立てていたのですが、
このままスロプロだけやってただ死んでいくというのもつまらないし、
試しに働いてみるかと、重い腰を上げて、数年ぶりに仕事というものに向き合ってみることにしました。

どういう職種にしようか少し考えて、まずは、今の自分でもすぐに役に立てそうな職場にしようということで、
長年”お客さん”として通っていたパチスロ専門店でホールスタッフとしてアルバイトをすることにしました。

スロプロとして長年通っていたこともあり、業務内容はほぼわかっていたのと、
スロットの仕組みなどは知り尽くしていたのもあって、業務自体難なくこなせるようになり、
勤め始めて3ヶ月目の今現在、”きちんと動ける”スタッフとして仕事出来ています。

また、組織に属して云々という個人的な悩みも出てくることなく、心地よく意欲的に働けています。
これは、かつての「お金のために仕事する」という考えではなく、
「仕事と向き合い直すために働く」というマインドで働けているためだと思います。

■ 本当にやりたかったことへ

仕事を再開してみて、働くのってそんなに悪いもんじゃないなーと思うようになり、
そこで、「本当にやりたかったことってなんだっけ」という問いに向き合う時期が来ているのかなと最近感じるようになりました。
今のマインドなら、かつて働きたいと思っていたゲームの制作の現場でもお役に立てるのではないのかと思っています。



【今の私に出来ること】

・スケジューリングと調整、その最適化
東大受験時代に身につけた、計画立案とその実行のための方法。

・数値管理と分析
スロプロ時代に得た数値の分析。

・ブランディングの理論と実践
東大時代に、片平秀貴先生に師事し、強いブランドを作り維持していくために必要な理論とその実践方法を学びました。

・俯瞰した視点を持ったコミュニケーション
相手の気持ちを理解するというだけでなく、複数人で共有している”場”に働きかけるコミュニケーションが出来ます。

・文章を書くこと
ビジネスでのメールのやり取りだけでなく、上記の略歴のようなストーリー仕立ての文章もかけます。

・情報の収集と資料作成
インターネットや文献から、情報を集め、資料として最適な形でまとめることが出来ます。

・英語
読み書きに関しては、全く問題ありません。コミュニケーションに関しても、日常会話レベルなら問題なしです。
ある日突然NYマンハッタンのど真ん中に置き去りにされても、なんとかなるくらいには。

・頭を使うこと全般
塾講師の経験が長いため、難解な物事を、わかりやすく解きほぐしてアウトプットすることは得意です。


【今の私に出来ないこと】

・イラスト全般
昔から絵を描くことがなく、イラスト関係は苦手です。特定のイラストを見ながらきれいに模写する程度ならば出来ます。

・プログラミング全般
経験がないため、未知数です。理解して覚えてしまえば、いけそうではありますが。



【希望する環境】

ゲームの中でも、美少女ゲーム、アダルトゲームなど、いわゆるエロゲ、ギャルゲーの制作現場で経験を積みたいと考えております。
日本のコンテンツ文化の中でも、「萌え」は日本人発祥の特有の概念であり、世界に誇れる文化であると考えています。
100年後の歴史の教科書の「平成の文化」の章の片隅に載るような作品を生み出せて死ねたら本望です。


【最後に】

ここまで長い自己PRを最後まで読んで頂きありがとうございました。
こんな私ですが、お役に立てる現場があれば幸いです。
よろしくお願いいたします。