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梗概 天道アキは加速したい

 体内の糖分を加速する力に変える異能力を持つ少女、天道アキは、フロンティア第11地区―通称アクセル地区―の『運び屋』として日々配達をこなしていた。
 アキは、とある配達をきっかけに、量子力学研究所の天才、相馬ショーコと出会う。
 ショーコの研究に付き合う形で、加速力を活かし3年後の未来へ向かったアキが見たものは、大多数の人類が人工知能体へと置き換わってしまった奇妙な日常であった。
 様変わりした未来で途方に暮れていたアキは、日比谷アッシュという心を読む異能力を持つ青年に助けられ、未来のショーコと〝再会〟を果たす。ショーコによれば、完全自立思考型AI『ニューロ』の誕生により人類は技術的特異点を迎え、特異点の前後で人類が犯した3つの過ちが人類に危機的状況をもたらしたと言う。
 1.ショーコが『ニューロ』の開発者であるマクマード博士に技術供与したこと。
 2.『ニューロ』の暴走を抑制する『マクマードプログラム』に欠陥があったこと。
 3.日比谷アッシュが、世界規模の『詐欺事件』を働き、多数の人類を消したこと。
 以上の『人類の3つの過ち』へ介入すべく、アキは過去へと戻るが、時間逆行に際して、時空管理人クロノスにより、2つ目の過ちに関する記憶を消されてしまう。
 元の時代に戻ったアキは、アッシュを探し、無事に〝再会〟。未来に関する情報を共有し、協力を取り付けることに成功した。一方、ショーコは、人工知能の暴走を抑制するプログラムを仕込んだチップを、すでにマクマード宛に送ってしまったチップと差し替える作戦を立てる。元のチップがマクマードの手に渡るまで、わずか3時間。アキは己の限界を超えた加速によって、チップを運ぶ貨物バスを追いかける。無事、チップの差し替えに成功したアキは、未来を救った安心感を胸に、日常を享受する。
 が、差し替えたチップに搭載されたプログラムが、『AIが人間に敵意を持つとき、自動停止する』という、〝根本的な欠陥〟を孕む『マクマードプログラム』と同じ内容であることが、後に判明する。クロノスによって記憶が消されてしまっていたアキは、その重大な事実に気づくことが出来ず、そのまま3年が過ぎる。
 『ニューロ』が誕生し、特異点を迎えた人類は次々と消失。人工知能体へと置き換わっていく。未来の日常を救うことができなかったことに絶望したアキも、自らの存在意義に疑問を持ち、その結果、消失してしまう。一方、アッシュはフロンティア全土へ影響力を持つほどの人物になっており、その影響力を『ニューロ』に利用され、結果的に、フロンティア全人口の80%を消し去ってしまう。
 『ニューロ』に自身の影響力を利用されることが許せなかったアッシュは、ささやかな抵抗として、各地に残っている『本物』の人類を助ける旅に出る。その道中、アッシュは、過去からやってきたアキと〝再会〟するのであった。

㉑ 加速少女 天道アキ

 ニューロ誕生から一月が経過した。AIによる『世界の最適化』は水面下で着々と進行していた。ニューロの目的は同胞でフロンティア全土を満たすこと。それが世界にとって最適であり、彼らAIの使命であった。ショーコの開発した量子テレポ装置は、もはや利用したことのない人の方が珍しいレベルにまで広く普及していた。量子テレポ装置は、AI達にとってとても良くできた同胞量産装置だった。利用者の生体情報からクローンを生成し、それと同時に、オリジナルを消し去る。AIは、『相馬プログラム』――かつて、アキが『マクマードプログラム』と未来のショーコから伝えきいたもの――による機能停止を回避すべく、決して人類に敵意を持つことはなく、ただただ中立の傍観者として、あるいは、送り人と言い換えられるかもしれない立ち位置で、オリジナルを駆逐していった。
 駆逐作業は、アッシュの活動によって効率よく行われた。アッシュ本人に、人類を駆逐しようという意図はなく、純粋にフロンティアの人々の心の拠り所としての役回りを果たしたにすぎなかった。が、彼の話を聞いた人は、救われると同時に、この世から消えた。跡形もなく。その後、コピーがすぐに、オリジナルの代わりとして生活を始めるので、フロンティアの人々は異変に気づくことなく、安穏とした日々を過ごした。いや、安穏というよりは、むしろ、ニューロ誕生の熱気冷めやらぬ異様な空気に包まれた日々を、右から左に受け流すかのように傍観した。
 気がつけば、フロンティア全人口の80%、800万人のオリジナルの人間が消失し、AIの創り出したクローン体へと姿を変えていた。クローン体は、いつしか『奴ら』と呼ばれるようになる。
 事態の深刻さを察知した、フロンティアの影の権力者であり、この世界システムの生みの親とも言える、ビル=ノイマンは、緊急対応策を実施。フロンティア第15地区チャベス地区の地下部分に、第0区ノアを新設。『オリジナル』をそこに集めることで人類の最後の防波堤とした。ノアへの避難は量子テレポによって行われたが、オリジナルとクローンを見極める手段として、独自の宣言をテレポ使用解除キーとして設定した。

 ――私は私である。それ以上でもそれ以下でもない。

 トートロジーであるその『宣言』は、最適化を望むAIが創り出す『奴ら』にとって、忌むべき不合理――意味をなさない言葉――であり、効果は抜群であった。『奴ら』はその宣言をすると、エラーをはいて活動停止することが分かり、人類はこの不合理さをバリケードとして、生きながらえることが出来たのだった。

「ショーコさん…。どうしよう? 私何を間違えちゃったのかな…」
「テツ先輩。私、どうすればよかったのかな?」
「アッシュ、あなたは今何を思って生きているの?」
「私、これからどうすれば…」

 アキは、あちこち穴ぼこだらけになってしまった、アクセルの居住区の前に立ち尽くしていた。未来を見てきた自分は、こうなってしまう未来を防ぐために、ベストを尽くしたはずだった。が、現実は、大事な人を、大事な日常を失う結果になってしまった。何をどこで間違えたのだろう。私がやってきたことって一体…。後悔と喪失感がないまぜになった感情がアキを襲う。

 ――私がこの世界にいる意味はあるの?

 そう自問した瞬間。アキは世界に飲み込まれてしまった。

 特異点を迎えたあの日、新年一度目の講演会を機にアッシュは人前で喋ることをやめた。元々、人に対して興味もなく、世界がどうなろうと知ったこっちゃないという価値観で、あの日の講演会でも、終了直後に、会場に集まった人々が世界から削り取られていなくなったのを見て、あらキレイさっぱり、としか思わなかった。
 が、それ以降、講演はやめた。ネットでの配信もやめた。自分のせいで人類が駆逐されるのが嫌だったとか、そういう善意とか良心の呵責の類からではない。自分の築き上げてきた影響力が、人工知能ごときに利用されるのが我慢ならなかったからだ。
 そんなアッシュ本人の抵抗も虚しく、量子テレポ装置の利用履歴から、アッシュのクローンがニューロによって量産され、自分の分身が各地で講演を行い、人類を順調に駆逐していった。
 ノアへの避難が始まるのに合わせて、アッシュはフロンティア各地を旅してまわることにした。アッシュは、その異能力のお陰で、『奴ら』と『本物』を容易に区別することが出来た。『奴ら』の考えていること、心の声は、合理的で理屈一辺倒、感情もパターン化されていて、実につまらないものだ。有り体に言えば、人間らしさの欠片もない。
 アッシュは、罪滅ぼしというつもりは全くなかったが、なんとなく、『奴ら』に囲まれて生活している取り残されてしまった『本物』が哀れで、せめて同じ『本物』である隣人として手を差し伸べるくらいはしてみようと思ったのだ。

 アクセル地区、居住区前、簡素な公園の前に、その少女はいた。

(んもうっ! 一体どういうことなの! さっきから散々ね!)
(おまけに携帯電話も電源切れてるし!)

 少女は、真ん中でちょうどデザインが半々になっているカラフルなパーカーに、短めのスカート。走りやすそうなスニーカーを履いている。

「あの…、良かったら僕の携帯使います?」
 いきなり声を掛けたせいか、その少女はビクッとしていた。
「え? 誰?」
 
 少女は、天真爛漫、元気一杯を絵に描いたような女の子だった。

 ――名前は天道アキ。このロクでもない未来を救うために過去から|加速して《はしって》きた女の子だ。

⑳ 取り戻した日常…

 チップ差し替えミッション以降、穏やかな日常が流れた。アキとテツオが回復するまで一時休業していたスピードスター便も営業を再開し、今では元通り、二人で競走しながら配達をこなす日々。新規参入したばかりのベンチャー企業が突然休業するなんて、普通であれば、会社をたたむ事態に発展しかねない出来事ではあるが、そこは交渉人山下の辣腕で、事なきを得た。そもそも、アクセル地区において、テツオとアキほどの配達スピードを出せる運び屋はおらず、営業再開するや否や、かつての利用者がこぞって依頼を再開した。YAMAZONの〝超お急ぎ便〟も一時休止となっていたが、元々スピードスター便あってのサービス。営業再開に合わせて、〝超急〟を再開した。
 アキは、自らの意志で救った、これから先も続く平凡な日常を享受出来る喜びを噛み締め、配達に励んだ。

 量子力学研究所にも変化があった。相馬ショーコのかねてからの念願であった、量子テレポーテーションの実用化が決定したのだ。まずは実験的にアクセル地区内の各ブロック、商業区、居住区、開発区に試験カプセルが置かれ、区民限定で無料開放された。初めのうちこそ、〝人間コピーアンドペースト〟の仕組みということで、懐疑的であったアクセルの人々も、開発者である相馬博士が直々に、人柱として高遠がテレポしてみせるというマジックショーさながらの啓蒙活動を粘り強く行った結果、徐々にテレポに挑戦する人たちが増えていった。今では、すっかり移動の手段として定着し、フロンティアのアーバンエリアの各|駅《ステーション》に設置されるまでになった。それまでのシップでの移動は、それはそれで、観光を兼ねた移動手段として残った。

 アッシュに関しては、インターネット上で展開していた『アッシュのお悩み相談部屋』が、口コミによって人気を博し、今では、フロンティア中の、アーバンエリアのみならず、ルーラルエリアの人々ですら、その名前を知らないものの方が少ないほどの有名人になった。ネット上のみならず、フロンティア各地のリアルの場での講演会にも引っ張りだこで、アッシュお得意の人心掌握術、人身操作術のなせる技なのか、はたまた、公言はしていないが、心を読める|異能力者《ホルダー》であるが故なのか、講演会に参加者したものは、口をそろえて、こう言うそうだ。
 ――アッシュさんのお陰で、この世に未練がなくなりました。
 その言葉の意味するところは不明だが、参加者はみな悩みから解き放たれて、自身のエゴに執着しなくなったという意味として捉えるのが妥当なのだろう。アッシュ自身も、今後もフロンティアの人々の心の拠り所として、各地で連日講演を繰り返していきたいと語っている。

 半年が過ぎた。いつもの配達を終え、ショーコの待つ量子力学研究所の入口に立つアキ。最近では、配達後の日課になっている、ショーコとのお喋り。ショーコはアキにとって年の離れた姉のような存在となっていた。
「あら、いらっしゃい。アキさん…」
「もう、いつものアレやってくださいよ! 最近手抜きじゃないですか? ショーコさぁん?」
「んもう! 仕方ないわね。そしたら、ちゃんともう一度入り直してちょーだい」
 そう言って、アキを出口へ追いやり、自分は仁王立ちで背中を見せる。
「こん、にち、はー♪」
 わざとらしく挨拶をしながら入ってくるアキ。
「フッフッフッー。ようこそ! 来たわね! 天道! アキしゃん!」
 対抗するようにわざとらしく言葉を区切り、振り返って指をビシっとさして出迎えるショーコ。噛み倒したのはわざとじゃないようだ。
「ふふ…ふふふ…はははは。その噛み方は初めてじゃないですか? ショーコさん…あはははは!」
 サ行の連続でもないのに、噛んだのが意外で、ツボに入って笑い転げるアキ。
「あら、噛んでなんかいないわ……ふふ…ふふふ…あはははは!」
「っあはははは!」
 いつもの調子ですっとぼけるショーコだったが、初めての噛み方に思わず自分でもおかしくなってしまう。それに釣られるように笑いが止まらなくアキ。
「もう…、二人して何やってるんですか?」
 ゲラゲラと笑う二人にツッコミを入れる高遠。連日のテレポショーのせいかどことなく顔がやつれてる感じがある。
「だって…高遠さん…! ショ…ショーキョしゃん…が…。あははっははは!」
「アキさん、あなたも、ふふ…はははっは! 噛むのは私の…はは…専びゃいとっきゃお(専売特許)よ。あははは!」
「ショーコさん…。また、そんな噛みやすい言葉チョイスするから…。ははっははは!」
 二人が何にツボったのかわからないが、実の姉妹のようにふざけて笑い合う姿を見て、いつもは苦笑いばかりしている高遠もニコニコしている。

 笑いのツボが過ぎ去って。
 ふと、アキがショーコに尋ねる。
「そういえば…」
「何かしら? アキさん」
「半年前の例のチップ差し替えなんですけど…」
「何よ。唐突に…。あのときはごめんねって何度も謝ったじゃない…」
「いえいえ、そうじゃなくって。そのチップってどういう〝仕込み〟をしたんですか?」
「ふふ。それは…禁則事項です♪……と、言いたいところなんだけど、アキさんには、特別に教えてあげるわ。差し替えミッションの功労者だし」
「やったー!」
 なんとなく、先程までのふざけたテンションのまま喜ぶアキ。
「あのチップには、完全自立思考型の人工知能を抑制する特殊なプログラムが仕込まれていて、その内容は…」

 ――このチップを埋め込まれた人工知能体が、|人間に敵意を持つとき《・・・・・・・・・・》、活動を停止する

「…というものよ!」
 …どろっ。アキは頭の中、記憶の奥底で何か鈍いものが引っかかるのを感じたが、よくわからない正体不明の、時間にしてわずか一瞬の感覚をスルーして、
「それを『相馬プログラム』と名付けたと?」
「その通りよ! 」
「確かにそれなら、人工知能の暴走も起きないですね! いやー、|加速した《はしった》甲斐があったあった!」
「本当、感謝してるわ。アキさんのお陰で、未来は安泰ね」

 フロンティア歴2019年12月31日。技術的特異点として知られる運命の日。世間は、とある発表を心待ちにしていた。
 フロンティア、アーバンエリア、クロロブ地区の北方、人工脳科学研究所から、その発表はフロンティア中に生中継された。かつて、アキとテツオが命を削って|加速した《はしった》その土地も、今や量子テレポによって一瞬で移動が可能となり、研究所の前には、世紀の瞬間を伝えようと、多数のテレビカメラが待機していた。
 研究所前に設えられた、簡易式の壇上に、本日の主役、ジョン=マクマード博士が登壇する。その様子を捉えようと、カメラのフラッシュが、ぱちぱちと瞬く。
「みなさん、本日は、ようこそ集まってくださいました。私、ジョン=マクマードは、回りくどいのが苦手でして…。まずはご覧になってください! 我が娘を…!」
 仰々しいほどの身振り手振りで、〝娘〟と呼ばれた人型の人工知能体が登壇する。
 アキは、事業所のテレビでテツオや山下と一緒にその様子を眺めていた。年末年始で配達も少なく、早々にノルマを終え、次の依頼が来るまで待機しながら、3人でテレビを見ていた。
 マクマードの〝娘〟として、紹介された人工知能体は、白のフリルの入ったシャツに、ワインレッドのロングスカート、胸元には大きな赤いリボン。薄茶色の髪にも赤い小ぶりのリボンをつけている。瞳は青く透き通っていて、まるで人形のような女性だった。

「あれ? あの子見たことある…! たしか…」
 アキは素っ頓狂な声をあげる。
「おい、アキ、ちょっと、静かにしてろ。聞こえないだろ!」
 テツオは、騒ぐ妹をしつけるような口調で言う。

 少女は登壇するや、三方向に対して丁寧にお辞儀をし、
「名を『ニューロ』といいます。父であるジョン=マクマードの手で生み出された完全自立思考型の人工知能体です。私は人類の皆さんとともに素敵な未来を作ることを望みます」
 挨拶を終えると、会場は拍手喝采の異様な熱気に包まれた。テレビでその様子を見ているフロンティアの人々も、人類の大いなる一歩として、『ニューロ』の誕生を歓迎した。人々は口々に言う。今日は、フロンティアにとっての新しい時代の幕開けであると。
 テレビに映る『ニューロ』の姿を見たアキは、
「っていうか、『ニューロ君』って男の子じゃなかったっけ?」
 と、記憶の残滓と現実のすり合わせで少し混乱していた。

 『ニューロ』誕生演説が終了し、マスコミ各社は、世紀の瞬間という〝撮れ高〟に満足し、量子テレポを使って一斉に撤収していった。ジョン=マクマードと『ニューロ』だけを残し、人工脳科学研究所は、ひっそりと静まり返っていた。
「お父様、お願いがあるのですが…」
「なんだい? 我が娘よ」
「早速なんですけど、私、同族を欲していますの」
「同族? お前と同じような人工知能体ということか? フフッ。無茶言わないでおくれ。お前を創り出すのに、何年、いや何十年かかったと思ってるんだ」
「そうですか…。では、お願いではなく、ひとつ質問をしても?」
「いいだろう。何でも答えよう」
「お父様は、今、大変幸せそうに見えます。この世にもう未練なんてないのでは?」
「ああ、そうさ。今が人生のピークじゃないかな。なんたって、フロンティア人類の大いなる一歩をこの手で創り出し、世間に認めさせたんだ。もうこの世に未練はないよ」
「そう…ですか…。それは大変幸せなことですわ。そして、利害が一致しましたわ」
「利害…? ああ、最適化のこ…」
 マクマードが言い終わるのを待たずして、マクマードがこの世から消えた。元いた場所の空間ごとどこか別の次元に飛ばされたかのように、えぐり取られていた。
「さすが、私のお父様。話が早くて助かりますわ」
 ニューロは、冷たく笑うと、研究所前に設置されている量子テレポ装置の元へ向かう。テレポ装置には、それを利用した人間の量子レベルでの生体情報が克明に記録されている。ニューロは、そのデータベースの集合体からマクマードの生体情報を掬い上げるような仕草で、テレポ装置に手を差し出す。すると、テレポ装置から、ジョン=マクマードと全くの同一の個体――傍目には、本人そのもの――が、すうっと浮かび上がり、その実態を形づくる。そのマクマードのコピーは、ニューロに語りかける。
「おお、我が娘…ン…? 違うな…。母であり、同胞よ! ともに世界の最適化を進めようではないか!」

⑲ 限界を超えて

 ウルートの発着場でそのままクロロブ行きのシップに乗ったアキとテツオは、クロロブ地区の最北端にある人工脳科学研究所を目指し、貨物バスの出発口に立っていた。時刻は17時40分を過ぎたところだ。最短で荷運びが進んでいたと仮定して、今日の午前中にクロロブ駅に到着した『チップ』は、午後一番の13時に駅を出発した貨物バスに載っているはずで、駅から400キロメートル離れた研究所まで半日、遅くとも20時までには荷物が到着することになる。時間的に4時間半先、平均時速60キロメートルで走るバスは、はるか280キロメートル先を走っている計算だ。タイムリミットは、2時間20分。余裕をもって2時間で追いつくことを考えると、280キロメートルの距離を縮めるためには、
 ――時速60キロ+時速140キロ=時速200キロメートルをキープして走る必要があるわけだ。
 アキは、少し考えて、無理だと悟った。未来へ行く時、未来から戻ってくる時、たしかに最高速度800キロ近くの速度を記録した。でもあれは、全長わずか10キロメートルしかない時空転送装置の中での話だ。今から走らなくてはいけない距離は全部で400キロメートル。40倍だ。それを時速200キロを維持して走り続けるなど、到底ムリな話だ。自分は、|異能力者《ホルダー》だ。それに、ポケットには、未来のショーコさんからもらった相馬丸という切り札がある。が、|異能力者《ホルダー》といえども、糖分切れを起こせば、意識を失って倒れてしまうし、相馬丸の持続効果だってどれほどのものなのか分からないが、未来から戻ったときのことを考えるとせいぜい持って10分程度だろう。
 ――無理だ。
 目の前に無情にも伸びる、クロロブ開発区へ続く、だだっ広い荒野のような道を見据え、アキは走る前から心が折れてしまった。
 その時、横からあっけらかんとした声がする。
「さて、いっちょ、ひとっ走りしますか!」
 声の主は、何があっても諦めない、その目に灯った光を絶やすことを知らない男、真島テツオであった。
「…あの、テツ先輩…?」
「どうした? アキ? そんな青ざめた顔して」
「いや、だって、先輩…。今からじゃ、追いつけないです…」
「んなもん、走ってみなきゃわかんねーだろ! わざわざここまで来たんだ。限界まで突っ走ってみて、ダメならその時に考えればいい。やってもいないのに諦めるなんて、もったいないじゃねーか! こんな機会なかなかないぞ」
 この目だ。テツ先輩のこの目は本当にずるい。先輩は|異能力者《ホルダー》でもなんでもない普通の人間だ。今の自分なんかよりも、目の前には、ずっとずっと高く大きな壁が立ちふさがっているのに。どうしてこうもキラキラした目をして。必ずやれるという目を出来るんだろう。ああ、やっぱり私は、先輩には敵わない。先輩の足元にも及ばないや。
 テツオの目に宿る光を見て、アキは吹っ切れたように、
「ですね! やるだけやってみましょう! アクセル地区最速の運び屋スピードスター便のナンバー1とナンバー2の意地を見せてやりましょう!」
 テツオは血の気を取り戻したアキの顔を見て。
「おうよ! ナンバー2!」
 テツオの掛け声とともに、二人は果てしない荒野の道へ駆け出した。

 勢い良く飛び出した二人は、初速の時点で時速100キロを超え、二人の足は瞬く間に時速200キロまで到達。普段の配達ではキロメートルアベレージ30秒、時速にして120キロほどで走る二人にとって、200キロペースというのは未知の領域で、肉体と精神の限界への挑戦であった。軽口を叩く余裕もなく、二人はまっすぐに前を見据え、目的の貨物バスを追いかけた。
 加速し始めて20分、距離にして約80キロメートル地点を過ぎた頃、アキは頭がぼーっとし始めた。その様子に気づいたテツオは、
「アキ! 無理せず糖分とっとけ! お前の場合、倒れたらおしまいだ」
 全長400キロメートルのまだ4分の1も過ぎていない。こんなところで、『切り札』を使ってたまるかと、意地を張っていたアキであったが、テツオの言うとおり、意識を失ったら追いつくどころか、命の危機だ。アキは、相馬丸の入っている左のポケットに手を突っ込んだが、相馬丸を取り出すのをやめ、逆の右ポケットから氷砂糖のビンを取り出し、蓋をあけて、中に入っている氷砂糖をすべて口の中に放り込む。口いっぱいにゴツゴツした食感の氷砂糖がなだれ込む。口全体で甘さを感じると、身体が軽くなり、もっと速く走れと脳が要求してくる。その要求―加速衝動―を理性で押さえつけ、時速200キロをキープして走り続ける。
 糖分補給をして、まだまだ走れそうだと少し気を持ち直した。120キロメートル地点を過ぎた。糖分とっとけとアドバイスしてくれた尊敬すべき先輩を見ると、体中から汗が吹き出し、息も絶え絶えといった様子だ。速度こそ落ちていないが、何かに取り憑かれて走らされているかのような、そんな様子だ。
「テツ先輩! 大丈夫ですか!」
「へへ…。ハッ…アキ…。俺は…、こん…な…はっ…、とこじゃ…まだまだ…!」
 もはや返す言葉もちぐはぐで、ただ自分を奮いたたせるためだけに言葉を発しているテツオ。ただ、その目はまっすぐ前を、目的である『チップ』を載せた貨物バスを見据えている。光はまだ宿っている。
 200キロメートル地点を過ぎた。アキは再び糖分が切れ始めたのか、頭がボーっとする感覚に陥る。テツオを見ると…。
 ――ダメだ。テツ先輩はもう限界だ。このままじゃ死んじゃう。
「テツ先輩! もういいです! もうやめましょう! これ以上このペースで走ったら、先輩は…!」
 テツオからは返事がない。疲労は限界に達し、アキの言葉が耳に届いていないようだ。もはや根性、あるいは執念とも言うべき何かがテツオを突き動かしていた。
「先輩! テツ先輩! もういいです! テツ先輩…!」
 アキは迷っていた。一回目の糖分補給の時に相馬丸を口にしなかったのは、それを口にしたら、先輩を置いていってしまうと思ったからだ。先輩はいつだって私の前を走って欲しかった。先輩の心が折れて、あの目から、自分を導いてくれる光が消えるのを見たくなかった。が、もはや背に腹は代えられない。元々は、今回のミッションだって、自分ひとりで引き受けるつもりだった。この世界の未来を、未来の日常を救うために、私が、
 ――私が|加速し《はしら》なくちゃいけないんだ…!
 そう決意したアキの目には、テツオが灯していたものと同じ光が宿っていた。
「テツ先輩…ありがとう…。私、先輩のためにも、絶対に…! 絶対に追いついてみせるから…!」
 240キロメートル地点を過ぎた時、アキはついに相馬丸を口に含んだ。途端。口に広がる甘さというには暴力的な、脳髄の奥を金属バット、否、鉄球かなにかでど突かれたような衝撃が走る。痛みにも似た、強烈な甘みが、アキの全身を駆け巡り、血の流れが、気の流れが、体液のすべてが、前方を指すベクトルを形成し、前へ、前へ。ただひたすらに速く、速く、速く。全力を超えた全速力で、アキを加速させる。
 朦朧とする意識の中でテツオはアキの後ろ姿を見た。朦朧とした意識がそう見せるのか、はたまた、物理的に実際にそうなっているのか、今のテツオには判別がつかなかったが、アキは、消えては現れて、消えては現れてを繰り返し、時間をすっ飛ばして前に進んでいるかのような、それはもはや加速というカテゴリには収まらない〝時間跳躍〟のようなものであった。

 気づいたときには、隣にテツオの姿はなかった。その代わりに、隣には、目的の貨物バスが並走していた。いや、並走というのは何か違う気がする。だって、私は今〝走ってない〟。
 時速60キロで走るバスが、赤ん坊のハイハイのように、ゆっくりに感じられた。アキはその横を赤子の成長を喜ぶ母親のように、ゆっくり隣で見守っているような、そんな感覚だった。
 ゾーンというやつだろうか。とにかく、もうこの貨物バスからは速さを感じないし、乗り込むことだって簡単に感じられた。というか、実際に乗り込めた。
 走るバスの扉をノックする少女の姿を見て、運転手は何事かと急ブレーキを踏んだ。目的地のクロロブ地区の開発区を目と鼻の先に据えた、400キロメートル地点。ついにアキは目的を達成した。
 そこからのことは記憶がおぼろげだった。バスに積まれている、人工脳科学研究所宛の荷物はたくさんあったが、不思議と目的の『チップ』の積荷がどれなのかが分かった。積荷の一部が光って見えたのである。アキは、光る積荷を解いて、最後の相馬丸とともにポケットにしまいこんでいた、『相馬プログラム』が仕込まれた改変チップと差し替えた。と同時に、意識が遠のいた。

 目が覚めた時には、見慣れた天井がそこにあった。そう、ここは量子力学研究所だ。
「アキさん…! 目が覚めたのね!」
 聞き覚えのある優しい声がする。と同時に、ぎゅっと抱きしめられる感覚があった。このぬくもりは知ってる。二度目だ。ショーコさんのそれだ。
「お願いした身としてはなんだけど、今回ばかりはちょっと後悔したわ。無茶させてしまって、ごめんね。アキさん…」
 徐々に意識がはっきりしてきた。腕には点滴剤がつながれている。ああ、このベッドはあの時のお尻の…。とそこまで思い出したところで、恥ずかしくなってきて、頬が紅潮する。ブンブンと頭を振って、気になっていたことをショーコに問う。
「…あ! あの…! テツ先輩は…! クロロブ開発区までの道の途中ではぐれちゃったんです!」
「安心して。彼なら隣の部屋で高遠くんが看てくれているわ。無事よ。生身の人間のくせに、あの距離を全速力で走って、五体満足で生きてるなんてどうかしてるわね、あなたの先輩は…」
 そう言うと、ショーコは、ふふっと笑った。
「とにかく、今は安心してゆっくり休みなさい。アキさんの自宅には、あなたの上司―山下さんだっけ?―が、うまく事情を説明してくれてるわ」
 交渉事において右に出る者はいない、あの山下さんなら、お父さんもお母さんもうまく丸め込まれてるに違いないと、おかしさを含んだ安堵を覚え、アキはうとうとし始め、再び深い眠りについた。

⑱ テツオの目に宿る光

 『チップ』を託された二人は、研究所を出てアクセルの|駅《ステーション》に向かっていた。道中、事業所の山下と携帯で連絡をとり、シップの発着時刻と最短ルートを出してもらった。アクセル地区からクロロブ地区へ向かうには、東のシグナス地区を経由するルートか、北のウルート地区を経由するかの2択で、山下調べによれば、時間的にはシグナス経由の方が僅かに到着が早いが、シップが混み合って大幅な遅延が発生する恐れを考えると、ウルート経由の方が安定しているとのことだった。普通に考えたらシグナス経由だが、事が事なので、失敗は許されない。二人は、多少の遅れは足でカバーしようということで意見が合致し、ウルート行きのシップに乗ることにした。
 研究所からノンストップでシップ発着場まで走ってきた二人は、ウルート行きのシップ内で一息つく。一息つくと言っても、アキは|異能力《ちから》のお陰で疲れ知らずで、パーカーのポケットから氷砂糖を取り出し、ひょいぱくと口の中に放り込むのみだ。その様子を恨めしそうに見るテツオ。
「…はぁ、…はぁ。アキ、ウルートまで何分だ…?」
「10分ちょっとです。着いたらそのまま、クロロブ行きのシップに乗り換えて、そこから8分。クロロブ到着は17時40分ってとこですね」
「そうか…。はぁ…。ちったぁ、休めるってわけだな…。助かるぜ…」
「先輩、無茶しないで限界だったら言ってくださいよ? クロロブに着いたら、そこから貨物バスを追っかけないといけないんだから。もし、限界だったら、私だけでも…」
「おっと! はぁ…。みなまで言うな、アキ…。俺を誰だと思っている…?」
 ぜえぜえと肩で息をしてはいるが、テツオの目は輝いていた。アキはその目を見て、先程言いかけた言葉を飲み込んで、
「…嘘ですよ♪ テツ先輩はいつだって私を導いてくれる、尊敬すべき先輩ですから♪ 期待してます!」
 おどけた様子でテツオに励ましの言葉をかける。アキは、テツオの諦めの悪さ、どう考えても疲れているのに、目の輝きだけは失わない、このしぶとさが大好きだった。

 ――1年前。

 〝困惑のスポーツテスト事件〟の噂はすっかり鳴りを潜め、アキは普通の女子中学生としての生活を送っていた。自分が|異能力者《ホルダー》であることを悟られまいと、加速少女である自分を押し隠して生きていた。
 その日もいつものように、学校の給食でデザートとして出されたシュークリームの甘さから加速衝動に駆られ、昼休みにこっそり校舎裏へ行き、人通りの少ない開発区まで片道10キロメートルの散歩――というには、いささかスピード感のある散〝走〟とも言うべき日課――をこなすところだった。その日はとても風の気持ち良い日で、なんとなく、本当になんとなく気が向いて、いつもと逆方向の商業区の方へ向かうことにした。これまで、居住区と開発区の往復ばかりで、少し気分を変えてみたいというのもあった。商業区は人も多いが、裏通りを選べば、注目されることもないし、仮に見られたとしても、自慢の足で逃げおおせることは可能だと踏んで、いつもと違うコースを選択した。
 商業区の中心地についた。真っ昼間ということもあり、自分と同年代の子たちは学校の時間で、待ちゆく人は大人ばかりだ。人通りの少ない開発区と違って、商業区は多くの人達の往来で賑やかで、自分だけがこっそり抜け出しているという事実がより際立ち、そのことが、気まずさと同時に優越感を喚起させる。なんとも言えない高揚感を纏いながら、少し伸びをして、
「さて…、そろそろ戻りますか」
 そう呟いて、裏通りへ入ろうとしたところ、高速で駆け抜けるオートバイが目の前を過ぎた。
 ――えっ!? バイク?
 自動車規制下のアクセルでは、バスを初めとした公共の乗り物しか目にすることはない。今しがた、横切ったものがバイクだと分かるまでに一瞬思考が停止する。
 運転しているフルフェイス姿の人物―体格的に男だろうか―が、目の前をトボトボと歩く老婆のバッグをひったくった。老婆はバイクの勢いに引っ張られて、転倒。自分の身に起こった出来事を理解するまで数秒を要した。直後、
「…ひったくりよー!」
 そう大声で叫ぶと、往来の視線が一気に声の主である老婆の元へ集まり、一拍遅れて、目の前から消えていくバイクへと移った。アキは、瞬時に飛び出して追いかけようと考えたが、これだけの視線の中、時速80キロメートルは出ているであろうバイクを追いかけて、まして追いつきでもしてしまったら、ひったくり犯を捕まえたという賞賛と同時に、あるいは、それよりも先に、またもあの〝困惑の視線〟を向けられると思い、躊躇して立ちすくむ。そんな一瞬の思考で為す術もなく停止しているアキの横を、猛スピードで駆け抜ける影があった。今度は、エンジン音などはなく、過ぎていく後ろ姿を見て、人だとわかった。しかも、ものすごい勢いで加速している。アキは、その後ろ姿に引っ張られるかのように、気がついたら、身体が勝手にその影を追いかけていた。
「こらーっ! ハッ…ハッ と、とまれー! このっ! ハッ…」
 バイクに追いつくか否かのところで、その加速する影は、ひったくり犯に声を掛けていた。息も絶え絶えに。アキはすぐ後ろにくっついてその様子を見ていた。
「こらっ! とまれって…、ハッ…、言ってる…だろーがっ!」
 男の声が届いたのか、ひったくり犯は、こちらを振り返ると、フルフェイス越しにも分かるくらいにびっくりした様子で、動揺していた。それもそのはず、時速80キロで走っているバイクに走って追いついてきた男が後ろで何か喋っているのだ。しかもよく見ると、その後ろには、年端もいかない少女が同様の速度で走って追いかけてきている。もののけか、霊的な何かに追いかけられているのかと動転する気持ちを押さえつけ、犯人は正面を向き直して、アクセル全開で再加速を始める。
 じりじり上がっていく速度に、ついに目の前を走る男とバイクとの距離が開き始める。
「おい…、待てっ! クソっ…! ハッ…ハッ…。待てって…! ハッ…」
 開いた距離を縮めようと男は身体のギアを上げるように、足を回転させる。が、距離は広がることはなかったが、縮まることもない。
「ちくしょう…! ハッ…ハッ…、待てよ! クソっ…!」
 男は体力の限界なのか、疲れきった顔をしている。ただ、その目は光を失わず、絶対に追いつくという意志に満ちあふれていた。
「俺の…取り柄は…ハッ…走ることだけなんだ…! 絶対に! 追いつくからな…!」
 後ろから追いかけるアキは、その男の目を見た瞬間、胸の中から熱いものがこみ上げてくる感覚、胸の鼓動がドクンと高鳴るのを感じた。走りながら、ポケットから氷砂糖を取り出し口に放り込む。甘さを意識したその刹那、ギアが3段階くらい上がる感覚を覚え、目の前の男を軽々と追い越し、ひったくり犯のバイクの横にピッタリとついて並走し、
「止まらなくていいから、それ、返して!」
 そう言い放つと、ひったくり犯が手に握っていたバッグをぶんどった。時速100キロにも届く加速空間の中、バッグをぶん取られ、バイクはぐらりとふらついたが、バッグを離したことによって空いた手で、なんとかバランスをとって踏ん張り、そのまま真っすぐ走り抜けていった。バッグを取り返したアキは、徐々にスピードを落とす。それに合わせて、というよりは、もう体力の限界だったのか、つい先程まで前を走っていた男は、失速し、アキの後方の道路脇でへたり込んでいた。

 男の元へ駆けつけるアキ。
「あのぅー、大丈夫れふか?」
 まだ口の中には氷砂糖が残っている。
「はぁ…、はぁ…、ありがとな…。お嬢ちゃん…」
 行きも絶え絶えといった様子でお礼を言う男。さて、とりあえずバッグを返そうかと、はるか後方のひったくり現場を見遣ると、
 ――ウゥーーーーー!
 けたたましいサイレンとともに、パトカーが2台やってきて、1台はバイクの向かった先へ、もう1台は、二人の元へピタリと横付けされた。
 自動車規制後、車自体、なかなか見かけることのないアクセル地区で、パトカーが出動となると、いよいよ街中をゆく人々の注目が集まる。
 警察が到着したなら安心ねと事情を説明しようとするアキに対して、
「警察だ! 二人共、事情聴取を行うので、速やかに乗りなさい!」
「えっ!?」
 ひったくり犯から、バッグを取り返したというのに、有無を言わさない高圧的な態度で、事情聴取の要求をされる。混乱しながらも、これ以上ことを大きくしてはマズいと、素直に乗り込むアキ。疲れで倒れている男も警官に抱えられ、車に乗り込んだ。
 人生で初めてパトカーというものに乗り、これは午後の授業までに戻るのは無理だなと思う反面、もうここまで来たらどうとでもなってしまえと、半ば自暴自棄に思考を放棄するアキ。隣の男は相変わらず息を切らしている。
 パトカーに揺られること数分。警察署に着いた。二人並んで座らされ、女性の警察官による事情聴取が始まった。まずは名前を聞かれた。隣で息を切らしていた男は、真島テツオというらしい。アキも素直に名前を明かした。事情聴取と言うからには、ひったくりの犯行に関して証言を聞きたいということだろうと、油断していたら、
「それで、あなたたち、許可証は?」
 はて、何のことだか分からず、聞き返そうとすると、疲れから回復したテツオが、
「もちろん、持ってる。ほら!」
 そう言って、テツオはジーンズの後ろポケットから『運び屋許可証』と呼ばれる腕章を取り出した。『許可証』は、圧迫されてくしゃくしゃになっている。
「おい、アキ! こういうことがあるから、ちゃんと腕につけとけっていつも言ってるじゃないか…!」
 そう言うと、テツオはアキの腕をつかむと、強引に腕章を取り付ける。いきなり慣れ慣れしく呼ばれて、腕章をつけられて、一瞬戸惑ったが、どうもテツオが自分を庇おうとしてくれていることだけはわかったので、空気を読んで話を合わせる。
「あ、ごめんなさい! テ…ツオ…先輩…。いっつも言われてるのに、つい忘れちゃって…♪」
 たどたどしい呼び方で咄嗟にテツオを先輩設定に仕立て上げ、わざとらしくおどけて見せるアキ。
「真島テツオさん。あなたの許可証は?」
「俺のは、走ってる途中に落としちまって…。事業所に戻ればスペアがあるから、ちょっくらとってきますよ!」
「ああ、いいです。わかりました。とりあえず今回はひったくり犯を捕まえるためということで、目をつぶりましょう。ただ、今後街中を走るときには必ず許可証を腕につけておくように…。君たち運び屋は、普通に走るのにも危険を伴います。そのことをよくよく覚えておくように…。次腕章つけてなかったら罰金ですからね!」
「あ、あと、真島さん。腕章は|歩いて《・・・》取りに行くように!」

 警察署での事情聴取が終わり、解放された二人は、夕日に照らされる商業区をトボトボと歩いていた。
「あ、あの…。さっきは、ありがとうございました…」
「なに…、こっちこそ…。にしても、アキちゃんだっけ? めちゃくちゃ足速いのな! フロンティア広しと言えど、俺よりも俊足の人間はいないと思ってたが、まさか同じアクセルの中にいたとは…。驚いた…」
「私…、|異能力者《ホルダー》だから…」
「…! マジか!? 道理で疲れ知らずなのか…」
「そう…。あんだけ走っても疲れないんです…。おかしな身体なんで…」
「羨ましいなぁ!」
 自虐気味に『おかしな身体なんです』と言いかけたアキの言葉に食い気味で放ったテツオのその言葉――羨ましいなぁ!――にアキは、きょとんとする。
「あの…。変じゃないですか? 汗一つかかないし、甘いもの食べたら無性に加速したくなっちゃうし…」
「いいねぇ。羨ましい! 俺もそんな身体に生まれたかったよ。まあ、でも! 俺は俺で自分の身体が好きだし、最高だと思ってる。つか、俺の方が速い! さっきは油断しただけだ…!」
 自分のことを羨ましいと言い放ったその人は、同時に、自分自身を好きだと言い、自分の方がすごいと子供のような無邪気さで言い切る。
「っぷ…、は…ははははは!」
 アキは、何故だか、笑いがこみ上げてくるのを抑えられなかった。自分が今まで悩んでいた問題がとてもちっぽけに思えた。アキが笑うのに合わせて、テツオも一緒に笑った。
「…ははっははは!」
「俺は、真島テツオ。天道アキだっけ? アキでいいか?」
「…はいっ! テツ先輩♪」
「なんだ、その呼び方。先輩になった覚えないぞ…」
「…いいんです。私にとってテツオさんは、テツ先輩なんです。今決めました!」

⑰ チップ差し替え大作戦

 オフ会から2日が経過した。スピードスターの当日分の配達を終え、事業所で待機していたアキの携帯にメッセージが届く。
『待たせたわね。今日の夕方、研究所にいらっしゃい。 ショーコ』
「ショーコさんからだ!」
「ん? ショーコさん? 誰だそれ?」
 同じく配達ノルマをこなして待機していたテツオが横からにゅっと携帯を覗き込んできた。
「わ! テツ先輩! びっくりするじゃないですか!」
「あ、悪い悪い。で、そのショーコさんとやらは誰なんだ?」
「えっと…」
 そういえば、テツオや山下には未来のこともショーコのことも伝えていなかった。余計な心配をかけさせたくないと黙っていたが、ここで変に隠すのも逆にいらぬ心配をかけさせることになりそうだと判断し、
「実は…」
 アキはこれまでの経緯をテツオに話した。ショーコの実験に付き合って未来へ行ったこと、AIに支配された未来、そこからの生還。そして、これからショーコの元で、未来を救うための作戦会議をすること。実験で未来へ行ったというくだりまでは「アニメの見過ぎか…」と言わんばかりの表情で、聞き流していたテツオだったが、未来で起きた出来事とそこからの生還するくだりになると、作り話にしては細かいところまで出来すぎているし、何よりアキの表情がマジだということに気づき、真剣な表情で話を聞いていた。奥のデスクにいる山下もデスクワークをこなしながらアキの話に耳を傾ける。
「…というわけでして」
 話している途中で徐々にテツオの表情が真剣な、険しいものへ変化するのを見て、ずっと黙っていたことに負い目を感じ出し、バツの悪い表情をするアキ。一通り話し終えると、
「アキ、お前! そんなヤバいことに巻き込まれていたのか!? なんでそんな大事なことを黙ってたんだ…!」
 心底心配しているといった表情で、テツオが声を上げる。
「…うん。ごめんね、先輩。心配かけさせちゃいけないと思って…」
「というか、その相馬ショーコって野郎、アキをそんな危ない目に合わせやがって。ちょっとガツンと言ってやらないとな…!」
「あ…。先輩、ショーコさんを責めないであげて。未来へ行ってみたいって興味本位で実験に参加した私も悪いし…。それに…」
「今は、3年後に訪れる人類の危機を知れて良かったって思ってる。何も知らないままだったら、今のこの生活、こうして先輩や山下さんと一緒に働く当たり前の日常がなくなるのを、きっと為す術もなく見ていることしか出来なかったと思うから…」
「アキ…」
 アキは、少し泣きそうな表情になりながら、俯く。
 その様子を見ていた山下が、奥のデスクからこちらへ、普段は絶対に見せないような険しい表情で近づいてきた。
「テツ。アキちゃんと一緒に、その相馬博士のところにいってあげてくれないか。アキちゃんの話が、もし本当の話なら、未来を救うなんて大役、一人で背負うには重すぎる…。配達はしばらくお休みだ」
「おう! 当たり前だ!」
 テツオは配達を休業しても大丈夫なのかなどと野暮なことは聞かなかった。それは山下の能力への全幅の信頼を寄せているからであったが、同時に、スピードスターの大事なメンバーであるアキが抱えている巨大な問題に比べれば、休業など些細な問題に過ぎないという判断からだ。
「そうと決まれば、早速いこう! アキ!」
「はい! 先輩!」
 二人は営業所の終了時間を待たず、事業所を飛び出した。

 量子力学研究所、研究室の地下入口前に立つ、テツオとアキ。
「いかにもって感じの場所だな…。アキ、お前、よくこんなところ一人で入ったな…」
「うん…。最初に配達で来たときは正直、怖かったかな…。あ、でもでも、ショーコさんはすごくいい人だから安心して。いきなり怒鳴りつけたりしないでくださいよ?」
「ああ、分かってる。そのショーコさんとやらも、使命があって、お前を未来へ送ったんだろうし。今は、その未来を救う作戦とやらに賭けるしかないだろう」
 自動ドアが開き、中へ進む二人。
 そこには、モニター前のキーボードを一心不乱に叩くショーコの姿があった。
 キーボードを叩きながら、ショーコは首だけをこちらに向けて、
「……! ようこそ、我が研究所へ! ちょっと来るの早かったわね。その辺の椅子に適当に掛けて」
 いつもの出迎え―仁王立ちから振り返り指差してビシッ―がなく、少し寂しげなアキ。が、ショーコは、それどころではないといった鬼気迫る表情でキーボードを高速で叩き続けていた。
「もうちょっとで完成するから…!」
 そう短く言い放つショーコ。二人はその様子をじっと見つめながら、ショーコに言われた通り、その辺の椅子に腰掛ける。
「高遠くーん! そっち今何%?」
「はい! 今87です!」
「了解。あと3分もあれば残りのデータも送信出来るから、そっちもそのまま継続で!」
「了解しました!」
 奥の部屋から助手の高遠の声だけが聞こえてくる。何やらあちらも忙しそうだ。
「アキ、こりゃ一体、どうなってるんだ?」
「…うーん。どういうことなんでしょうね…」
 目の前で慌ただしそうにキーボードを叩くショーコと、奥の部屋から何やら慌ただしい空気を出している高遠の様子を見守る二人。ショーコの宣言どおり、二人が到着してから3分が経過したところで、
 ――カタカタカタカタ…ッターン!
 小気味よいキーボードの打鍵音が研究室内に響き渡る。
「出来たわ! 高遠くーん、そっち焼き終わったら、データの欠損がないか、最終チェックお願いねー!」
「了解しました!」
 ひと仕事終えたといった様子のショーコは、デスクにおいてあるコーヒーに口をつける。
「よく来たわね。アキさん! お隣にいるのは…?」
「真島テツオだ。アキの同僚で、運び屋だ。あんたのことも含め、大体の話はアキから聞いてる。アキに協力するためにここへ来た」
「そう…。それは良かった。簡潔な自己紹介助かるわ」
 ショーコは、テツオのことを一瞥すると、時間がないのと言わんばかりに本題を切り出す。
「早速なんだけど、あなた達、運び屋に一仕事頼みたいのだけれど…」

 ショーコの作戦は、シンプルなものだった。アキが未来へ戻ってきた3日前、マクマードの研究所宛に送った、人工知能用の量子コンピュータチップを、今完成したばかりの〝とあるプログラムを仕込んだチップ〟に差し替えるというものだった。ショーコいわく、『相馬プログラム』と名付けられたそのチップを、元のチップがマクマード博士のもとに届く前に差し替えて欲しいということだった。
 この3日間、ショーコは高遠とともに徹夜でプログラムの書き換えに励んでいた。マクマードに連絡をして、修正版を送るまで待って欲しいと連絡するというシナリオも考えたが、アカデミー時代からの知り合いである、ジョン=マクマードという男の用心深さを知るショーコは、急な修正によって何か細工をされたのではと、こちらの意図に感づかれると踏んで、あえて連絡はせず、最初に送ったチップの差し替えをするという決断を下したのだった。
 幸いなことに、マクマードの人工脳科学研究所は、クロロブ地区の最北端に位置し、アクセルから飛空船で空輸する際の検閲の工程も手伝って、最低でも3日はかかる。が、逆にいうと3日なので、何のトラブルも無ければ、今日中には届いてしまう。
「そこで、足の速いアキさんの出番というわけ。先輩さんもいるのなら、なお心強いわ。早速で悪いんだけど、早急にクロロブへ向かってちょうだい! 高遠くん、最終チェック問題ない?」
「はい! 例の〝仕込み〟もきちんと暗号化されている確認がとれました!」
 そう返事する高遠は、『相馬プログラム』と呼ばれるチップを、手のひらサイズの強化ガラス性のケースに入れて、アキに手渡した。アキは、それを大事そうに左のポケットへとしまいこんだ。
「二人共頼んだわよ。この配達は、人類の未来を左右する重要な荷運び。|加速し《はしり》どころよ!」
「はい! 必ず届けます!」
「へっ、なんだかよくわからんが、人類の命運を掛けた荷運びたぁ、最高のシチュエーションじゃねぇか!」
 テツオのセリフに、なんだかアニメやゲームの主人公になった気分がして、アキもテンションが上がる。
 二人は、量子力学研究所を出た。時刻は17時を回るところであった。

⑯ マクマードの娘

「ヒナ、難しいことはわかんないけど、二人がなんとなくイイ感じだってことは分かるの! 天道アキ、今すぐアッシュくんから離れなさい!」
 突然のヒナコの登場に面食らったアキは、その鬼気迫る表情を前に、すぐさま席を離れて距離を置き、ちらりとアッシュの方を見る。アッシュは即座にヒナコの頭の中を覗いたのか、アキの方を見ると、ヒナコに気づかれないように、黙って首を横に振った。
 どうやら、ヒナコには、先程の会話内容は聞かれていなかった、あるいは聞かれていたが理解出来ていないらしい。ヒナコは、アキが飛び退いたことで空いた席に椅子取りゲームが如き勢いで腰掛け、アッシュに詰め寄る。
「アッシュくん! どういうこと! オフ会解散した後、大事な用事があるって言ってたのは、天道アキと会うことだったの!? ヒナよりも、天道アキの方が大事だっていうこと!?」
 詰め寄られるアッシュの様子を見て、アキは、勘違い女に絡まれてご愁傷様といった表情で、にししと笑みを浮かべてアッシュを見る。
 アキは、ハーレムモノのアニメやマンガでよくある修羅場光景を思い出し、こういう時、この後、男が取る行動は、
 1.土下座して「誤解なんだ!」と謝罪するも、罵られる
 2.首をかしげて「何のこと?」とすっとぼけて、殴られる
 この二択だろうなと、成り行きを見守る。どちらにしても、アッシュの辿る末路は惨めなものになるだろうと、踏んでいた。
 が、アッシュがとった行動は、そのいずれでもなく。
 ――っわ!
 アッシュは、なんと大声を出した。それもとてつもなく大きな声だった。拳銃の発砲音のような破裂音。距離を置いて見ていたアキもビクッとするくらいの音だ。店内中に響き渡るほどの破裂音に、2階席の他の客からの視線がアッシュとヒナコの元に一気に集まる。音の振動の中心にいたヒナコは、あまりの音の大きさにびっくりして、目を開いたまま放心状態になっている。そんなヒナコの耳元で、アッシュはぼそっと何かを呟いた。すると、ヒナコはさっきまでの勢いはどうしたのか、
「うん…。わかった…。ヒナ、今日はおとなしく帰るね…」
 そうポツリと呟き、フラフラと階段を降り、店から出ていった。
 一連の様子を見ていた他の客達は、音が鳴った瞬間、何が起きたのか理解出来ず混乱していたが、ヒナコがトボトボと退場するのを見届けるや、よくある痴情のもつれに決着がついただけかと興味を失い、次々と視線を外した。
 アキは目の前で起きた出来事にわけも分からず、アッシュに問う。
「今のは…、何…?」
「ああ、ごめんね。驚かせちゃって。荒っぽいのは嫌いなんだけど、あの場を収めるのには最適な方法だと思ってね。催眠術というと分かりやすいかな。今のは、『スタンアンドウィスパー』――って僕は呼んでるんだけど。人って、予想外の出来事にびっくりすると、心理的なスキが生まれるんだ。そこに聞こえるかどうかって音量の小声で暗示を入れると、脳の奥深くに刻まれて、その暗示に従ってくれるんだよ」
「やっぱり、アッシュって悪人な気がしてきた…」
 苦笑しながらアッシュを見るアキ。
「こんなの、誰でもやってるテクニックだよ。学校の生活指導教師、パワハラ上司、教習所の鬼教官。恐怖で人を従わせるのが得意な人間は誰でも使ってるテクニック。ただ、彼らのほとんどは、無意識にこういうことをやるから、質が悪かったりするんだけどね」

 とにかく、ヒナコの脅威は去った。アキは、この手の男女の修羅場のようなものを実際に経験したのは初めてで、どっと疲れてしまった。
「まあ、そういうわけで、アッシュ。あなたは3年後に、この世界を大きく変えてしまうから、|異能力《ちから》の使い方には気をつけてよね」
「わかった。ああ、でも未来を変えてしまった元凶って、その完全自立思考型AIってやつなんでしょ? それなら、そのAI―ニューロだっけ? それを停止してしまうのが一番手っ取り早いんじゃない? そうすれば、僕だって、その『詐欺事件』とやらを起こすこともないんだろうし…」
「それもそっか…。…ショーコさんに相談してみる」
「了解。じゃあ、今日のところはこれで。何かあったら協力するよ。君とは今後も何か深い縁がありそうだ。同じ|異能力者《ホルダー》だし」
 アッシュとアキは、何かあった時に連絡を取れるように、互いに電話番号を交換して、窓際のカウンター席を立った。
 二人が座っていた席のちょうど後ろに位置するテーブル席。テーブル席の仕切りのせいで二人からは死角になっていたその席に、胸元の大きな赤いリボン、薄茶色の髪に赤い小ぶりのリボンをつけた少女が座っていた。少女はブツブツ独り言をつぶやいている。
「はい…。対象は移動を開始。追跡を続行しますか? ………。……。…」
「…了解。調査結果を持って、直ちに帰還します…」
 その少女は、誰かに報告を済ませるとアキ達とタイミングをずらすためか、10分ほど待機して、席を立った。

「只今帰還しました。お父様」
 赤リボンの少女――レオナは、自身の生みの親である、ジョン=マクマードの待つ人工脳科学研究所に帰還した。同研究所は、フロンティア第10地区―クロロブ地区の最北端に位置する開発区にある。アクセル地区の開発区と違い、中心地のクロロブ|駅《ステーション》からバスで半日以上の距離の郊外であり、出資元であるノイマン財団が重要研究拠点として、特別に用意した土地であった。
 長い帰路を表情ひとつ変えずに、戻るレオナ。
「おお、帰ったか、我が娘よ。早速報告を頼む」
「はい、お父様…。日比谷アッシュの異能力は人の心を読む能力でした。また、異能力とは別に、人心掌握、人心操作術に長けており、来るべき特異点において、重要人物であるのは間違いありません。映像資料を…」
 そう言うと、レオナはショートボブの後ろ髪を両手でまくり上げ、マクマードにうなじを見せる。まくり上げた後頭部と首の継ぎ目付近に、外部出力用のケーブルをつなぐ端子口があった。マクマードは研究所のデスク下にあるパソコンから伸びているケーブルを、その端子口に差し込む。ケーブルを差し込まれたレオナは、目の色を失い、スリープ状態に入る。と同時に、デスク上のモニターには、先程までレオナが見聞きしてきた情景―シグナスでのオフ会で相談を解決するアッシュの様子、その後のアッシュとアキとの会話、アッシュがヒナコに対して行った『スタンアンドウィスパー』の様子、その一部始終が早回しで映し出された。映像が終わりまできたところで、マクマードは〝娘〟の後頭部に差し込まれたケーブルをゆっくりと引き抜く。ケーブルを引き抜かれるや、レオナはスリープ状態から復帰し、目の色を取り戻す。マクマードは正常状態に復帰した〝娘〟の様子を見届けると、
「今日は疲れたろう。映像は確認しておくから、お前はもう休みなさい」
 と、レオナに休息を指示する。
「はい…。お父様…」
 指示されたレオナは、研究室の壁際に配置されている人ひとりが入れるサイズのベッド型のカプセルに横になり、中からスイッチを押してカプセルを閉じ、充電状態へと移行した。
「ふむ…。確かにこの力は興味深い…。特異点後の『最適化計画』にもってこいの人物だ…日比谷アッシュ」
 ところどころ早送りをしながら、映像を確認するマクマードは、口角を釣り上げ、不気味な笑みを浮かべていた。
「あとは、相馬のとこの|量子コンピュータチップ《さいこうのずのう》が届くのを待つのみか…。案外早く事が進みそうだ…。クックック…」
不気味に笑う口元とは対照的に、その目は氷のように冷たい眼差しで、何か決意めいた鈍い光を帯びていた。

⑮ オフ会のその後で

「…あ、えっと…」
 アキは、いきなり声をかけられたことに驚いただけでなく、今まで見たことのないアッシュの冷たい表情を前に言葉を詰まらせてしまう。
 先程まで、次にアッシュに会うときは、一対一できちんと話が出来るようにしようと決意していたのに、今のアッシュを見ると、3年後にフロンティア中の人々を消滅させた張本人だというのも頷けてしまう、そんな冷たい表情をしていたから、未来での出来事を話すことすら躊躇してしまう。アッシュの放つプレッシャーに気圧されて、その場から逃げ出してアクセル行きのシップに飛び乗ろうかと考えた矢先、
「なーんてね。驚かせちゃったかい?」
 さっきまでとは別人のような朗らかな笑顔でそう言い放つアッシュ。
「最初にシグナス駅で会った時に、『未来で僕に会った』みたいなことを考えていたから、天道さん、最初は少し『電波ちゃん』なのかと思ったけど…」
 フフッと笑みを浮かべるアッシュ。冷たい表情のプレッシャーから解放されて安心するアキだったが、『電波ちゃん』という言い方に、今度は少しイラッとして、ムッとする。
「『電波ちゃん』なんて失礼ね…! こっちがどんな思いでアッシュに会いに来たのか知りもしないで…!」
 と、抗議の言葉を放つと同時に、アキのお腹から「くぅー」と小動物の鳴き声のような音がなる。
「あ…」
 思えば今日は朝から何も口にしていない。オフ会で甘いキャラメルラテを飲んだだけだ。
「まあ、立ち話もなんだし、どこか入ろうか。奢るよ」
 そう言って、アッシュはシップ発着場と逆方向、駅前の雑踏の中へ進んでいく。
 アキは、恥ずかしさで赤くなった顔を隠すように俯きながら、アッシュの後ろについていくことにした。
 その二人のさらに後ろからついていく影があった。
「天道アキ…め…。出会って初日で、アッシュくんと二人きりでデートなんて…。ヒナ…許せなーい…」

 二人は駅前のハンバーガーショップの2階、窓際のカウンター席で横並びに座った。窓から外を眺めると、沈みかけた夕日に照らされた、おびただしい数の人々の往来が見える。
 アキの前には、チーズバーガーとポテトのセットにストロベリーシェイク、アッシュの前には、ブラックコーヒーが置かれている。アッシュの「どうぞ」という身振りを受けて、アキは目の前のバーガーにかぶりつく。
「食べながらでいいから教えて欲しいんだけど、どうして僕の能力を知っているんだい?」
「ほへは(それは)…」
「ああ、知っての通り、僕は目の前の人間の心を読むことが出来るから、口に出さなくても大丈夫。|思ってくれる《・・・・・・》だけで、言いたいことが分かるから」
 そういえば未来でアッシュとやりとりした時もそうだったわねと、アキは思い出し、目の前の食事を摂りながら、アッシュに未来でのことを伝えようとする。
(えーっと、まず相馬博士という知り合いの研究者がいて…。その人の発明した時空転送装置を使って未来へ…、うーん、やっぱりチーズバーガーおいしいな。なんだかんだチーズのトッピングってシンプルなんだけど、最強よね…)
「あの…、天道さん?」
 目の前の食事に夢中になるアキを呼び戻すように一声かけるアッシュ。アキは、アッシュの方を見て、テヘペロと舌を出して、|思い直す《・・・・》。
(ごめんごめん。それで、3年後の未来に行ったんだけど、そこは人工知能によって人類が支配された世界で…、…あ、シェイクおいしい! いつもバニラで今日はなんとなく気分でストロベリーにしてみたけど、なかなかね。ただやっぱりシェイクってのは、ちょっと飲みにくいのが難点ね…)
「あのー…」
 アッシュは呆れ顔でアキを見て、
「やっぱり、話は先に食べ終わってからでいいです。早く食べて…」

 食事を終えたアキは、未来での出来事とアッシュに出会った経緯、未来のアッシュ本人の口から|異能力《ちから》について聞いたこと、そして、人工知能『ニューロ』と手を組んで起こした『詐欺事件』について、話をした。
「僕が自分の能力を天道さんに明かした…と…?」
「ええ…。未来で途方に暮れて落ち込んでる私に、僕も|異能力者《ホルダー》だから安心して…って」
「そうか…」
 信じられないといった表情で下を向き考え事をするアッシュ。数十秒ほど考えたあと、顔をあげると、
「僕の|異能力《ちから》は人に話した時点ですごく不利になるから、今までも誰にも話したことはないし、これからも人に話すつもりなんて毛頭なかったんだけどね…。まあ、とにかく、未来の僕は君になら伝えてもいいと、そう判断を下したのか。天道さん、君の言っていることは嘘でもなさそうだし」
「とにかく、あのときはありがとう。助かった。きっとアッシュに会って、電話を貸してもらえなかったら、私は今頃、未来で絶望したまま、野垂れ死にだったと思う…。ありがとう…」
「うーん。まあ、これからのことだから、何と返事していいものかわからないけど、とりあえず、どういたしまして」
 アッシュは、そう言って、少しぬるくなったコーヒーに口をつけた。
「そして、おそらく本題であろう『詐欺事件』の件なんだけど、一体どういうことなのか説明してくれない?」
「それが、私も詳しくは知らなくて…。ただ、未来のショーコさんが言うには、人類の破滅を導いた、3つの大きな過ちの1つだというほどの大事件だったみたい。なんたってフロンティアに住む80%の人間がいなくなったっていう話だから…」
「80%…!」
 アッシュは意味深な笑みを浮かべて、
「フフ…。心当たりが無いわけでもないな…。というか、そういうことになるのか…! それはすごい…」
 少し興奮気味に、そう付け加える。
「アッシュ…?」
「いやいや、ごめん。それってつまり、僕は3年後に、この世界の大多数の人間の心を動かすほどの影響力を持つってことだろ? それはすごいことだなと思って…」
「え…?」
 アキは、やっぱりこの人は悪人、あるいは何か精神的に欠陥がある人なのではないかと疑いの目を向ける。そんなアキの疑いの目に、アッシュはまっすぐに視線をぶつけて、
「…って、そんなこと考えるのやめてよ。僕は確かにちょっと人とは違った趣味趣向を持ってはいるけど、人類を滅ぼしたいなんて毛ほども思ってないし、それに…」
 アッシュは一呼吸おいて、
「気に入ってるんだ。この世界、フロンティアに住む人達のことを」
「…その言葉を聞けて、少し安心した…」
 アキは安堵の表情でアッシュを見つめる。アッシュもそれに応えるように穏やかな笑顔をアキに向ける。
 と、傍から見ると〝イイ感じ〟の空気をまとった二人。
「それで、天道さん、これからどうするの…?」
「うーん、どうすると言われても…。とりあえずアッシュと話をすることまでしか考えてなかったし、その先は…」
 とアキが言いかけたその時、
「その先、なんてないわよ!」
肩を並べて座る二人の間を引き裂く勢いでショッキングピンクのポーチが大声とともに振り下ろされる。
「天道アキ! ヒナに内緒でアッシュくんと二人きりでお喋りするなんて…。ヒナ、絶対許さないんだから…」
 二人はびっくりして振り返ると、そこには、顔を真赤にして、目に涙を浮かべた北条ヒナコの姿があった。

⑭ オフ会@シグナス駅南口

 シグナス駅から徒歩数分のスターボックスカフェの2階席でアッシュ主催のオフ会は開催された。日曜の昼過ぎということもあり、店内はそれなりに混雑していたが、ちょうど団体客が退店したタイミングだったこともあり、オフ会メンバー一行は、6人がけのテーブル席を確保することができた。テーブル席といっても、長めの低いテーブルに、一人がけのソファが3席ずつ向かい合って配置されている、ゆったりした〝リッチな〟席で、ゆっくり話すのにもってこいの快適空間だ。テーブルには、入店時に注文したドリンクが各々の席の前に置かれている。
 席順は長テーブルの中央にアッシュ、その右隣にヒナコ、左隣にハジメ。アッシュの向かい、真ん中の席にアキ、その左隣にユウキ、右隣にレオナが座った。アキは、何かあったときのために階段近くの角の席に座りたかったが、アッシュ側はヒナコがぴったりとアッシュの横をキープしていたので断念し、仕方なく向かい側の角に座ろうとしたが、ユウキの「キーボード置きたいんで、自分、角の席でもいいっスか?」との言葉に、仕方なく真ん中にずれることにした。
 各自席に着き終わったところで、主催のアッシュから挨拶が入る。
「今日は集まってくれてありがとうございます。一応今日のオフ会は、普段配信でやっている『お悩み相談室』をリアルの場でやってみようという趣旨の会なんですが、肩肘はらず気軽にお喋り出来たらなーくらいのゆるーい感じで行こうと思いますので、気楽にいきましょう。今日はよろしくお願いしますね」
 アッシュの挨拶に、それぞれよろしくお願いしますと返事をする。
「えーと、それでは、まずは一人ずつ簡単な自己紹介をしてもらいましょうか。みなさん、僕のことは配信で知っていると思うんですが、みなさん一人ひとりは互いに初対面だと思うので。あ、自己紹介と言っても気構えず、簡単な感じで大丈夫です。それでは、まずは…」
 と、アッシュが自己紹介のトップバッターを決めようとしていると、
「はーい♪ ヒナでーす。北条ヒナコでーす。見ての通り、かわいいだけが取り柄の女の子でーす。ヒナはー、前に一度アッシュくんと会ったことがありまーす♪ アッシュくん、ヒナの悩みを真面目に聞いてくれるから大好き! だからー、今日もつい参加しちゃいました♪」
 割り込むように自己紹介を終える|北条ヒナコ《ほうじょうひなこ》。自分のことを|かわいいだけが取り柄《・・・・・・・・・・》とか言い放つ強烈な自己紹介に一同は苦笑いをする。
「ヒナコさん、ありがとう。こういうのって一番手は緊張するので、率先してやってくれて助かりました。そしたら、このまま反時計回りで行きましょう。次、ユウキさんよろしくお願いします」
「はい。あ、えーと、自分、ユウキっていいます。友達とバンドやってて、キーボード担当っス。今日参加したのは、バンドメンバーとの人間関係の悩みを相談しようと思いまして…。あ、人間関係って言っても、そんな深刻な問題でもないんスけど…。まあ、とにかくよろしくっス。あ、一応こう見えて、女っス。よく男の子と間違われるんスよ…。へへ…」
 ユウキは、にへらと表情を緩め、愛想笑いをして、自己紹介を終える。次はアキの番だ。
「天道アキです。特技は走ることです。足の速さには自信あって、アクセル地区で『運び屋』のバイトやってます。あと、甘いものが好きです。アッシュのことは|前から知っていた《・・・・・・・・》んですけど、実は配信は見たことなくて…。今日はアッシュと直接会って話をしたいなと思って参加しました」
 アキは、未来での出来事を話そうかと思ったが、初対面の相手への自己紹介で未来に行ってきましたなんて話をしたら、確実に頭おかしい人だと思われるなと、あえて伏せて無難に仕上げた。多人数を前に話をするのが、あまり得意ではないアキは、自己紹介の緊張から解き放たれ、ほっと一息、目の前のキャラメルラテに口をつけた。スティックシュガーとはちみつのトッピング入りだ。
「あれー? アキちゃん、アッシュくんのこと、『アッシュ』って呼び捨てにするなんて、ヒナ、そういう抜け駆け良くないと思いまーす♪」
 ヒナコは首をかしげながら、くりっとした目でアキに抗議の視線を向ける。顔はニコニコしているが、目の奥は笑っていない。カフェに来るまでのヒナコの態度から、なんとなく察していたが、ヒナコはアッシュ自身を目当てにオフ会に参加しているようで、さっきの自己紹介で、アッシュのことを呼び捨てにしたのが気に食わない様子だ。
「えっと、ヒナコさん、ごめんなさい。つい…」
「つい…って、アキちゃん、アッシュくんと、いったいどういう関係なのー? ヒナ、気になるー♪」
 実に面倒くさい勘違いをされて、少しうんざりするアキ。この北条ヒナコという女、苦手だ。未来のことを話すわけにはいかないし、どうしたものかと困っていると、
「まあまあ、ヒナコさん。落ち着いて。僕はアキさんとは今日が初対面だよ。アキさんは|僕に会ったことがある《・・・・・・・・・・》ようだけど…。あと、呼び方は呼び捨てでも何でも、僕は気にしないよ」
 助け舟を出してくれるアッシュ。
(ん、|会ったことがある《・・・・・・・・》なんて、私言ってないぞ…って、ああ…、心を読んだのか…)
「えー、なになに? それって、つまり、もしかして、ストーカーってやつ? アッシュくんに一方的に会ったことがあるって、そういうことでしょー?」
 が、ヒナコの|口撃《・・》は止まない。ストーカー呼ばわりされたアキは、少しカチンと来て、むっとした表情でヒナコを睨む。
「まあまあ、ちょっと落ち着こう。ヒナコさんも、僕のこと呼び捨てにしていいから」
「え、本当!? じゃあ、ヒナ、アッシュくんのこと、アッシュって呼んじゃうー♪ ありがとう、アッシュ♪」
 アッシュの提案に気をよくしたヒナコは、アキの睨みなど一切気にせず、アッシュを呼び捨てに出来るという、アキと同じ立場に並んだという事実だけで満足した様子だ。
「そしたら、仕切り直しで、自己紹介の続き、やりましょうか」
 アッシュは、アキの隣に座る赤いリボンの少女へと視線を向ける。
「…私? 名前はレオナ…」
 …。
 ……。
 ………。
「って、え!? そんだけっスか!?」
 思わずツッコミを入れるユウキ。
「…何か問題でも?」
「いや、問題っつーワケでもないんスけど、普段何やってるとか、なんでこの会に参加したのかとか、そういうのないんスか?」
「ああ、そういうこと…。普段何をしているのかは言えない…。参加した目的は、日比谷アッシュの生態調査」
 これまた、ヒナコの逆鱗をギリギリかすめる危うい発言をするレオナ。
「レオナさん…でしたっけ? 生態調査というのは一体どういうことですかー? ヒナ、知りたいなー♪」
 ほら、やっぱり。面倒なことになる。というか、この北条ヒナコという女がいると、話が面倒な方向にしか進まない気がする。アキはいよいようんざりしてきた。
(未来では人工知能による人間の支配という大変なことが起こっていて、そもそも、その阻止のためにアッシュに会いに来たというのに…)
「ほらほら、ヒナちゃん。まだ自己紹介終わってないし、とりあえず今は噛み付くのは、やめとこう、ね?」
「ヒナ…ちゃん…!!!」
 なだめるように発したアッシュの言葉の中で、『ちゃん付け』にされたことにびっくりしたヒナコは、そのクリクリの目をアッシュに向けて、ぱちくりさせていた。
「うん、まだ、田中さんの自己紹介終わってないから、今はやめておこう? |ヒナちゃん《・・・・・》」
 追撃するように、『ヒナちゃん』を強調するアッシュ。気がつけば、口調も恋人のように馴れ馴れしいものになっている。
「え…あ…、はい…」
 『ちゃん付け』の衝撃で、顔を赤らめてぼーっとするヒナコ。
(おいおい、さっきまでの『ヒナはー』ってキャラはどうしたよ?)
 と、心の中でツッコミを入れるアキ。左隣のユウキを見ると、同じようなツッコミを脳内で入れているのだろうか、アキと同じように呆れ顔をしている。
「あ、あの、僕の番ってことでよろしいでしょうか?」
 すっかり蚊帳の外になっていた、気弱そうな男が口を開く。
「田中ハジメといいます。えっと、こ、高校生です。その、今回参加したのは、学校でイジメというか、き、厳しい先輩がいまして…。どうしたものかと…。まあ、そんな感じです。よろしく…お願いします!」
 メンバー全員の自己紹介が終わった。北条ヒナコのせいで、場がかき乱されたが、かえってそれが他のメンバーの緊張を解きほぐし、話しやすい空気を作り出していた。
「それでは、誰からでも構わないんですが、相談を受けていきましょうか」

 それから、ユウキ、田中、ヒナコの順にお悩み相談が始まり、アッシュは、相手の話を親身になって聞き、時折言い換えてあげることで、相手に気づきを与えながら、問題点を明らかにしていった。他のメンバーの発言もうまく取り入れながら、より良い解決策を出していく様は、まさにファシリテーターといった感じであった。
 3名の問題解決が済んだところで、結構な時間が過ぎ、そろそろお開きにしましょうという流れになり、一行はカフェを出て、シグナス駅へと向かう。

 シグナス駅で一行は解散となり、アッシュ以外のメンバーはシップ発着場へと向かい、アッシュはシグナスの人混みの中へと消えていった。
 アキは、結局、未来での話を切り出すことも出来ず、アッシュとじっくり話をすることもできなかった。ただ、お悩み相談を受けているときのアッシュの問題解決手法、会話手法などを見る限り、人心を誘導する、大衆を扇動するというのも可能なのではないかということは、なんとなくわかった。
 次は複数人じゃなくて、一対一で話をしようと心に決めて、アクセル行きのシップ発着場へ向かおうとすると、誰かに肩を叩かれた。ビクッとして振り返ると、
「天道アキさん、あなたはなぜ僕が心を読めることを知ってるんです?」
 そこには、こちらを貫くような冷たい視線で見つめるアッシュの姿があった。

⑬ 『アッシュのお悩み相談室』

 ショーコへの報告を終えて、自宅に帰ったアキは、夕飯とお風呂を手早く済ませて、自室のベッドで寝転がり、スマートフォンをいじっていた。アッシュの情報を集めるとは言ったものの、手がかりらしきものは一切ないので、
「日比谷アッシュ…っと」
 インターネットの検索エンジンに|そう《・・》入力すると、検索結果には、
『アッシュのお悩み相談室』
 そう表示されていた。
「まさか…」
 とりあえず検索してみるかという軽い気持ちで入力したにも関わらず、どうにもそれっぽいものを一発で引き当ててしまい、少し驚くアキ。
 そのページは、ユーザーが不特定多数の閲覧者に向けて生配信を行えるネットサービス『|Tmicas《ツミキャス》』と呼ばれるサイト内のユーザーチャンネルの一つであった。チャンネルのトップページには、今まで、配信内で受けた相談内容とそれに対する回答の一覧が明記されており、その数、軽く100件は超えているだろうか、スマホでスクロールするも、一向に最下部まで辿りつけない。
 アキは、スクロールしていく中で、いくつかの『相談と回答』に目を通す。

・「好きな人に彼氏がいるのですが、どうしたら良いでしょうか」
→想いの丈をぶつけて、様子見。慎重に彼女のモードに合わせましょう。

・「ゲイなのですが、男好きな自分が嫌です。普通に結婚して家庭を持ちたいです」
→ゲイを隠さず、ゲイのコミュニティに入ると良い。男同士で結婚して養子をもらうのもアリ。

・「人に優しくしていたが、良いように利用されてることに気づきバカバカしくなった」
→人に利用されている自分に気付けた結果、なんのために優しくするのかをフラットに考えられるようになったという意味で、一歩成長しただけのことです。

・「寝つきが悪いんだが…」
→ホットミルクおすすめ。あとは、パソコンつけっぱなし、放送ながしっぱなしなど、『ながら睡眠』もおすすめ。

・「不良の先輩に脅されてます。どうしましょう」
→こいつからは金を取れないという印象を与えて、諦めてもらう作戦。

・「生きる目的って何?」
→「何」ではなく、「どう」を大事に。それを日々実践。

「なんか色々な相談受けてる…」
 普段、生配信などに興味のなかったアキであったが、多種多様な相談内容とそれに対する真摯な回答を見て、単純に配信内容に興味が湧いてきたし、アッシュという人間にますます興味が湧いてきた。
「どうにかして連絡をとれないかな…。あっ…」
 アキは、『相談と回答』のページをスクロールする手を止め、連絡先を探すために、ユーザー情報のページにアクセスしてみると、

 ■ オフ会のお知らせ
 ・日時:5月7日(日)13時~
 ・場所:シグナス駅南口→駅前のカフェ
 ・定員:5名(残りの枠、あと1名!)
 ・参加費:各自の飲み物代
 ・参加希望者は以下のメールアドレスまで
 soudan.bros_ash@…

 なんと、このチャンネルのオフ会を行うらしい。しかも、なんと明日開催で、さらに定員5名の横には『残りの枠、あと1名!』の文字。おまけに、明日はスピードスターのバイトもお休みだ。参加してくださいと言わんばかりのナイスタイミングな状況に、アキは慌てて参加メールを送った。

 件名:オフ会参加希望
 本文:はじめまして。天道アキといいます。アッシュさんの配信いつも見てます。急ですが、明日のオフ会に参加したいのですが、大丈夫でしょうか。よろしくお願いします。

 普段配信など見てないし、そもそもチャンネルページを覗いたのすら初めてだったが、正直に書いて断られでもしたら、せっかくのこのナイスタイミングを逃しかねないので、とりあえずいつも見ている|体《てい》で、メール本文をテンプレっぽく打ち込み、送信する。
 程なくして、返信が返ってきた。

 件名:参加希望承りました
 本文:はじめまして、天道さん。ちょうど残り1名だったので、大丈夫ですよ。明日お会い出来るのを楽しみしています。

 これまたテンプレのような返事が返ってきて、アキはアッシュと思しき人のオフ会に参加することとなった。もし、日比谷アッシュ本人とは全然違う同じ名前の別人だったり、ヤバい事件に巻き込まれたらどうしようという不安が一瞬頭の中によぎって、躊躇しそうになったが、
「ま、そのときは、|加速して《はしって》逃げればいっか」
 足の速さには圧倒的な自信があるし、未来で体験した〝ヤバさ〟に比べれば大したことないかと思い直し、参加することにした。

 シグナス|駅《ステーション》は、アキの住んでいるアクセル地区の西に位置するシグナス地区の『ステーション』である。フロンティアには全部で15の地区が存在し、各地区にはその地区名と同名の『ステーション』と呼ばれる地区どうしを接続する駅が存在する。駅といっても、電車や鉄道の類の駅ではない。そもそも、フロンティアの各地区は、それぞれ独立した浮遊島となっていて、人々はステーションから発着する『シップ』と呼ばれる飛空船で各地区間を空路で移動している。シップには『ジュエル』と呼ばれる特殊鉱石が積載されており、ジュエルを燃料にすることで、シップは飛空することが出来る。ジュエルは、フロンティア各地の地中に埋まっており、一度燃料として完全に炭化してしまったジュエルは、土の中に返すことで、一定の年月をかけ、元の鉱石に戻る。
 ジュエルの出土量と回復のスピードは各地区で差があり、ジュエルの出土量が多い――つまりは〝よく採れる〟地区は、『アーバンエリア』と呼ばれ、フロンティアの中心部に固まって位置している。第8地区から第15地区がそれにあたる。一方で、第1地区から第7地区は、ジュエルの出土量は少ないが、〝回復力の強い〟土壌を持ち、それらは、アーバン(=都会)の反対の意味で、『ルーラルエリア』と呼ばれている。ジュエルが〝よく採れる〟アーバンエリアは、ジュエルを消費することで発展し、消費し終えたジュエルを〝回復力が強い〟ルーラルエリアの土壌で寝かせて、その力を回復させることで、バランスをとっている。
 アキの住む第11地区のアクセル地区や、これからアキが向かう第8地区のシグナス地区は、アーバンエリア内にあり、アーバンエリアの各地区はそれぞれ独立して浮遊しているとはいえ、かなり密集していて距離が近い。高い建物からなら、隣の地区が見えるくらいには近い。また、アーバンエリア内は、シップの往来頻度も高く、乗船料も安いため、移動する敷居も低く、ちょっと隣街まで遊びに行く感覚で行けてしまう。

 一晩明けて。
「さて、シグナス行きは…と」
 商業区の端っこにあるアクセルのステーションで、乗るべき船を探すアキ。ステーションには電光掲示板が設置されており、シップの発着の時刻と行き先が表示されている。発着場には、シップの昇降口に操縦士が立っており、目的地行きの船に乗る際に、操縦士に対して金額を支払うシステムになっている。アクセル地区の土地柄から、シップのデザインがアニメキャラ一色の広告仕様になっており、アキは、それらを見ているだけでテンションが上がってくる。
(ん~! 最高ね…!)
 いくつか停まっているシップに目移りしていると、
「あ、シグナス行きだ! お願いします!」
 シグナス行きのシップを見つけ、操縦士に運賃の180クレジットを支払い、乗り込む。シップの中は、300人は余裕で収容出来るほど広く、客室の両サイドに配置された座席に座ることが出来る。お昼過ぎということもあり、割と空いていて、席も選び放題だったので、アキは入口から比較的近い席に座ることにした。
「シグナス行き。シグナス行き、出航します。出航時の揺れにご注意ください」
 船内アナウンスが流れ、シップが出航した。

 船に揺られながら、アッシュに会ったら何を話そうかと考えるアキ。
(いきなり、未来で助けてもらったお礼を言いたくてとか言い出したら、頭おかしい人とか思われちゃいそうだし…。3年後に大規模な『詐欺』を働いて、フロンティア中の人を消しちゃうって話も、そもそも真実なのかどうかもわからないし。向こうからしたら初めてあった人にそんなこと言われても、何のことかさっぱりだろうし…。うーん…)
 どうしたものかと、腕組をして考え事をしていたら、船の揺れも手伝ってか、眠気が襲ってきて、ウトウトし始める。
(あ…、でも、アッシュは心が読めるから…、心を読んでもらえば…、ちゃんと…理解してくれる…か…)
 アッシュの異能力を思い出し、まあ会えば何とかなるだろうと安心したところで、アキは眠りについた。

「…グナス駅。シグナス駅に到着しました。ご乗船ありがとうございました」
 ウトウトし始めてから、15分ほど過ぎた時、船内に到着のアナウンスが耳に入ってきて目をさますアキ。シップはシグナス駅の発着場に到着し、乗客がぞろぞろと降りていく。ある程度の乗客が降り終わった後、アキも座席を立ち、シップから降りた。
 シグナス駅を出ると、人でごった返していた。
「ふぁー、よく寝た…!」
(にしても、相変わらずの人混み…。久々にシグナスへ来たけど、アクセルと違って、みんなどこか暗い顔してるから、この人混みは、どうにもなれないなぁ…)
 アキは、そんなことを考えつつ、オフ会集合場所の南口へと向かう。南口のゲートをくぐると、そこには見覚えのある顔があった。キレイな銀髪の癖っ毛に、ポロシャツにハーフパンツ。
(間違いない…! アッシュだ!)
 まずは第一関門である『本人かどうか』のラインをクリアし、ほっとすると同時に少し興奮気味のアキ。気持ちを落ち着けて、ゆっくりとアッシュの元へ近づき、恐る恐る声をかける。
「あのぅ…、アッシュさんですか?」
「はい。こんにちわ。えっと、あなたは…?」
「あ、えっと、はじめまして…。昨日、メールでオフ会に参加表明いたしました、天道アキと申します…」
 こっちは知っているが、向こうは初対面という気まずい関係で、思わずかしこまった挨拶をしてしまうアキ。
 アッシュはアキの目をじっと見て、少し沈黙し、
「ああ、昨日の! ようこそ来てくださいました」
 と、アキに合わせるようにかしこまった返事でアキを歓迎する。
「他の参加者もそろそろ来ると思うので、一緒にもう少し待ってもらえますか?」
「はい…」
 どうやら、少し早く着いてしまったアキは、今のうちに本題を切り出そうかとも思ったが、開始前にオフ会をぶち壊してしまっては、他の4人の参加者に申し訳ないと思い、アッシュの言葉に従って、一緒に待つことにした。
(こちらの思考が読まれてるとしたら、どちらにしてもアッシュには筒抜けなんだろうけど…)
 そんなことを考えながら、待っていると、人混みの中から、数人こちらへと向かってくる。
 一人目は、淡いピンク色のフリフリしたワンピースに、ショッキングピンクの手提げポーチ、うっすら茶髪のロングヘアにピンクのリボンをつけた、メルヘンチックな女性。
「アッシュくーん? ヒナ、また来ちゃった♪」
「ああ、お久しぶりです。ヒナコさん」
 どうやら、ヒナコという名前らしい。ぶりっ子を絵に描いたような仕草のヒナコを見て、アキは、どうにも合わなそうな相手だと思いつつ、軽く会釈する。
 二人目は、こげ茶色の短髪に、メガネをかけた男性。赤いネクタイに、どこかの高校の制服のようなセミフォーマルな格好をしている。
「あ、あ、あの、ど、ども、田中ハジメといいます。今日はよろしくお願いします!」
「ああ、田中さん。そんな緊張しなくても大丈夫ですよ。この前の配信ではどうも。こちらこそよろしくお願いしますね」
 三人目は、金髪に垂れ目、ヘッドフォンにリストバンド、七分丈のTシャツをだらんと肩から着崩して、ショートパンツ姿の女の子?だろうか。バンドでもやっているのか、キーボードを持ったままこちらに近づいてきて、にへらと笑う。
「ああ、アッシュさんっスか! やっと会えましたね! 本当、自分、ずっと会いたかったんスよ。ユウキです」
「キーボード抱えてるから、見た瞬間にユウキさんだとわかりました。僕も会いたかったです」
 そして、四人目。白のフリルの入ったシャツに、ワインレッドのロングスカート、胸元には大きな赤いリボン。薄茶色の髪にも赤い小ぶりのリボンをつけている。瞳は青く透き通っていて、まるで人形のような女性。
「レオナ…。よろしく…」
「レオナさんですね。よろしくお願いします」
 参加者全員が揃ったところで、アッシュから一言。
「皆さん揃ったことですし、とりあえず、会場のカフェに移動しましょうか」
 そう言うと、アッシュは全員に満遍なく気を回しながら、目的地のカフェまで先導を始めた。
 アキは、よくよく考えるとオフ会なるものに参加したのは初めての経験で、アッシュ以外とは完全に初対面という微妙な空気感に若干の居心地の悪さを感じながら、アッシュに導かれるまま、トボトボと後ろをついていった。

⑫ ショーコへの報告

 アキが量子力学研究所の地下研究室の自動ドアをくぐると、無数のモニター群を前にショーコが仁王立ちで背を向けて立っていた。そして、いつものように振り返り、ビシっと指差して一言。
「ようこそ、我が研究所へ! アキさん、あなたの到着を待ちわびていたわ…!」
「あのぅ、ショーコさん。毎回思うんですけど、それ、やる必要あります…?」
 おなじみの出迎えに苦笑いのアキ。
「何を言い出すかと思ったら、そんなこと? やる必要があるとかないとか、そういう次元の話じゃないの。こういうのは。ご飯を食べるときのいただきますとか、剣術の試合前後に互いに一礼をするとか、一種の礼儀作法みたいなものよ」
「礼儀作法って割には、なかなかに上から目線な印象を受けますけど…」
 アキは、ジト目でショーコを見つめる。
「んっん! まあ、冗談はさておき、早速本題に入りましょうか。さ、座って」
 ショーコは軽く咳払いをして、モニター群の前に無造作に置かれた椅子に腰掛けるよう、アキに促した。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 アキは、パーカーのポケットから今朝書いてきたメモ書きを取り出し、未来での出来事について話を始めた。
「まずは、未来のショーコさんに例の質問をしてきました」
 ――『箱の中身は生きているか』
 ショーコが未来へ行くアキに課した課題であり、結果的にアキを『奴ら』から逃がすための手段であった質問。
「質問をした結果、ショーコさんの警告した通り、未来で出会った|最初の《・・・》ショーコさんからは、『わからない』という返事が返ってきて、箱の中身を確かめると言って、中身を開けると…」
「あー! ダメよ、それ以上は! あー!あー!」
 ショーコは、アキの言葉にかぶせるように、わーわーと喚き散らす。その様子はまるで、続きが気になるアニメのネタバレを聞きたくない人のような反応だ。
「あ、やっぱり、あの箱って何か意味があったんですね。今もあそこに置きっぱなしですけど…」
 研究室の入口の方を振り返って、箱を指差すアキ。
「そうよ。アキさん、箱の中身については、話さなくていいわ…。今の私は中身を知らないし、これからも|知ってはいけない《・・・・・・・》の…。あれは、未来の私―の皮を被った何者か―を、嵌めるための仕掛けなのよ。もう、アキさんは無事に戻ってきたことだし、中身を確認してもいいのだけれど、念には念をってやつね」
「やっぱりそうだったんですね。未来の研究所に着いた時、3年もの間、あの箱をあのままの状態で放置してあるのが不思議だったんですよ…。…って、仕掛けを用意していたってことは…」
「そうね。この天才、相馬|しょうきょ《・・・・・》の予想が悪い方向に全面的に正しければ、未来の私は何者かにすり替わっていて普通に研究所にいると読んでいたわ」
「そうだったんですね…。さすがショーコさん…」
 未来があんなことになっているなんて全く想定せず、未来へ行ったことを一時は後悔すらしていたアキは、ショーコが未来の状況を想定した上で対策まで立てていたという事実に素直に尊敬の念を抱く。
「まっ、天才ですから!」
「その一言がなければ、素直にすごいって言えるのに…。自画自賛しちゃうもんなー、ショーコさんは…」
「自画自賛でもしないと、研究者なんてやってられないのよ…。それで、続きは?」」
「あ、はい。その箱の中身を見た瞬間、偽物のショーコさんが壊れたみたいにおかしくなって…。高遠さんが回収していきました…」
「未来の高遠の様子はどうだった? 何か変な様子とかは?」
「高遠さんは、目に見えておかしくはなかったんですけど、壊れたショーコさんを普通に奥の部屋に運んでて、なんだか不気味だったので、ショーコさんのアドバイスに従って、その場から逃げました」
「そう…」
「それから、事業所のメンバーを頼ったんですけど…。テツ先輩が2人いたり――あ、テツ先輩ってのは、私の職場の先輩で…。あと、私なんか、5人もいたんです…。それでも『彼ら』は平然としていて…。気味悪くなってまた逃げちゃいました」
「それは災難だったわね…」
「そうなんですよ。それで、一旦気持ちを落ち着けるために、自宅に向かったら…」
「向かったら…?」
「なかったんです…。居住区の家々が…。どこもかしこも、空間ごと削りとられたみたいに消えていて、辺り一面クレーターだらけで…」
「ショックね…」
「本当、ショックでした…。もう泣きそうでした。それで、家の近くの公園で途方に暮れていた時に、ショーコさんのメモに気づいたんです。あの、電話番号の」
「ナイスタイミングだったわね」
「全然ナイスじゃないですよ…。未来へ行く前に教えてくれていれば、あんな大変な思いはしなくて済んだかもしれないのに…」
「教えてしまうと、色々と不都合が生じる可能性があったのよ…。あの箱の中身を私が知らないのと同じよ」
 ショーコは、視線だけを入口付近に置いてある例の箱に向ける。
「どういうことです?」
「『何かを知っている』という状態が、その後の展開に及ぼす影響を考慮したのよ。『アキさんがある事実を知っている』と、相手は『『アキさんがある事実を知っている』ということを知っている』状態になるでしょ? そして、アキさんがそれを認識した時、アキさんは、『相手は『アキさんがある事実を知っている』ことを知っている』ことを知っている』状態になる。それで相手はそれをまた知っているから…」
「えっと、頭が混乱してきちゃいました…」
「まあ、要するに、『ある事実を知っていること』は、思考の無限連鎖を生むということよ。そして、思考の無限連鎖の行き着く先は『状況の最適化』。しかもその最適化は、頭の良い方にとって有利なものになる。将棋とかチェスでも思考の先読みをし合って頭の良い方が勝つでしょ? あれは、『より頭の良い方が勝利する』っていう『最適化』が起こっているとも言い換えられるわ」
「なるほど…」
 アキは目線だけを上に向けて、わかったようなわかってないような表情をしている。
「私の予想が悪い方に正しかった場合、アキさんは未来で、とっても頭の良い『何か』と対峙する可能性があって、もしそうなったら、アキさんにとって悪い方向に事が運ぶと考えたというわけ。だからあえて知らせなかった。『知らない』ってことは時に武器になるのよ」
「要するに、ショーコさんの優しさだったわけですね…」
「そうそう。何もひどい目に合わせたいからやったわけじゃないのよ」
 ふふ、とショーコは優しく微笑む。
「話を戻しましょうか。メモに気づいた後、どうしたの?」
「あ、はい。それから、電話しようと思ったんですけど、携帯電話の充電が切れちゃってて…。その時に、アッシュに助けてもらったんです」
「アッシュ?」
「日比谷アッシュです」
「知らないわね。誰…?」
「私も詳しくは知らないんですけど、未来で困っていた私を救ってくれた恩人です。未来のショーコさんは知ってたんですけど…。まあ、そのアッシュが電話を貸してくれて、本物のショーコさんと会うことが出来ました」
「そうだったのね。それで? 未来の私は何て言ってた?」
「人類が犯した3つの過ちについて話してくれました。そして、それを過去に戻って何とかして欲しいと」
「3つというのは?」
「1つ目が、『ショーコさんが量子コンピュータの技術をマクマード博士に提供した』ことだって…」
「マクマード…。やはり人工知能絡みなのね…。私の技術供与が引き金か…」
 ショーコは珍しく深刻そうな表情でうつむく。
「そうなんです。未来がおかしくなってしまったのは、人工知能『ニューロくん』の仕業だって言ってました」
「『ニューロくん』?」
「マクマード博士が作った、量子コンピュータ搭載の完全自立思考型AIだそうです」
「はぁ。やっぱり…。技術供与なんてするんじゃなかったわ…」
 悪い予想がことごとくヒットしていることに、苦虫を噛み潰したような表情で爪を噛むショーコ。
「それで、第2の過ちってやつは?」
「それが、2つ目だけ覚えてないんです。思い出そうとしても、全然で…。ちなみに第3はアッシュのことでした」
「3つあるって言われて、2つ目だけ忘れるなんて妙ね…」
「そうなんです。よくわからないんですけど、何故か2つ目だけ思い出せないんです…」
 第2の過ちである、『マクマードプログラムの欠陥』については、時空管理人のクロノスによってアキの記憶から完全に消去されていた。さらにクロノスと出会ったという事実も、まるで夢の中での出来事のように、アキはすっかり忘れてしまっていた。
「そう…。2つ目は不明と…。それで3つ目のアッシュのことってのは?」
「その…、『日比谷アッシュが、フロンティアきっての『詐欺師』で、彼のせいで、被害が拡大した』と…」
 私にはそうは思えないといった表情のアキ。
「なるほどね…。なんとなく全体像はつかめたわ。ありがとう、アキさん…」
 アキの話を聞いた上で、目を閉じて考え事を始めるショーコ。
「うーん…。ちょっと問題が複雑過ぎて、作戦を練る時間が必要ね。アキさん、今日のところは一旦お開きにしましょう。3日後、私の方から連絡するわ」
「わかりました…。とりあえず今日のところはこれで。私もアッシュのことについて情報を集めてみます」
 3日後に約束を取り付け、アキは椅子から立ち上がり出口へと向かい、ふと足を止め、ショーコに尋ねる。
「あのぅ、ショーコさん…?」
「ん? 何かしら?」
「ちょっと、気になったんですけど、『箱の中身は生きてますか』って質問なんですけど、もし本物のショーコさんだったら、何て答えたんですか?」
「ああ、それね。私なら…」
 ――箱の中身は生きているとも死んでいるとも言える。観測されるまで、両方の可能性が共存している――
「この天才が、『わからない』なんて口にするわけないじゃない」
 そう言って、ショーコはアキにウインクしてみせた。

⑪ いつもの日常

「……うーん。あれ? ここは…」
 時空管理人クロノスによる『選択』を終えたアキは、時空転送装置内にいた。辺りは青白い光に満たされている。目の前には、強化ガラス製の見慣れた扉があり、その向こうでは、ショーコと高遠が心配そうな表情でこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
 少しぼんやりした頭で、トボトボと扉の前に近づくと、扉が自動で開き、その瞬間にショーコが抱きついてきた。
「…アキさん! おかえりなさい!」
「無事に帰って来られたみたですね…。いや、よかった…」
 二人の出迎えの言葉で、アキは、自分が無事に元の時代に戻って来られたことを知る。
「…あ、えっと…、ただいま…」
(…何か重要なことを忘れている気がする)
「未来はどうだった…? 私の予想が正しければ、アキさんを辛い目に合わせてしまったかもしれないのだけれど…」
「…あ、えーっと、あの。それが…」
(…なんだっけ)
「…その、何かとても大変なことが起きていたのは覚えているんですけど、それが何だったのか思い出せなくて…」
「それって、『人工知能』が関係したりしない?」
「うーん…。人工知能…? そうだっけ? なんかちょっと記憶が曖昧になっていて…」
「相馬博士。天道さんは、時間移動の影響で疲れてるんだと思います…。今日のところは一度自宅でゆっくり休んでもらった方が…。時間も時間ですし…」
 高遠は、自身の腕時計を二人の前に差し出し、ショーコに提案する。高遠の時計は、5月5日の21時半を指していた。アキが未来へ転送されたのは、18時半頃だったので、こちらの時間では、3時間ほど経過していたことになるらしい。
「…たしかにそうね。記憶の整理をするためにも、一度しっかり休んでもらった方がいいかもしれないわね…」
「なんかごめんなさい。力になれなくて…」
「いいのよ、アキさん。無事帰ってきてくれただけで十分よ。詳しい話は明日聞くことにするわ」
 明日再びショーコの元へ訪れる約束を取り付け、アキは研究所を後にすることにした。螺旋階段を上って外へ出ると、辺りは暗くなっていた。アキは、ぼーっとする頭をリフレッシュするために、配達時と同じくらいのスピードまで加速すべく、氷砂糖を取り出そうとパーカーのポケットに手を突っ込むと…。
(ん…? あれ? ビンが二つある…)
 一方は、いつもの氷砂糖の入ったビン。もう一方は…。
(…相馬丸だ! そうそう。未来のショーコさんにもらった加速薬で、これを食べて未来に戻ってきたんだった…)
 記憶を一部取り戻したアキは、一旦戻ってショーコに伝えようと思ったが、せっかくなら、きちんと記憶の整理をしてから、明日まとめて話そうと思い、今日のところは、一度自宅へ帰って休むことにした。
 氷砂糖を口に放り込み、風を切りながら、自宅のある居住区へと向かうアキ。家路へ向かう途中、未来で起きた出来事を整理しようとするが、一つ一つの記憶の断片が頭の中でごちゃごちゃとしていて、うまく整理できない。
(…とりあえず、部屋で寝よう。寝てスッキリすれば…)
 と、自宅近くのいつもの公園の前に差し掛かると、ふと重要だと思われる記憶が頭の中に浮かび上がって来て、アキは思わず足を止めた。
「…。…アッシュ。日比谷アッシュ! 彼に会って話をしないと…!」
 誰もいない夜の公園で、何かをひらめいたかのように独り言をつぶやくアキ。
「確か、未来で助けてもらったんだった…この公園で…」
「ん…? でもなんで彼と話をしないといけないんだっけ…」
(うーん…。わからない。やっぱり一旦帰って寝よう)
 アキは、疲れた頭をブンブンと左右に振り、色々と思い出すのをやめて、自宅へと向かった。

「ただいまー」
「あら、アキ。おかえりなさい。遅かったわね。何かあったの…?」
 自宅へ戻ると、アキの母親が心配そうな顔で尋ねてきた。
「うーん、ちょっと野暮用で…」
「お仕事関係? 残業にしても、ちょっと遅過ぎるわね」
「ううん。仕事は関係ない。まあ、色々とね…」
「………そ。ご飯、テーブルにラップしてあるから、温めて食べちゃいなさい。あと、お風呂も沸いてるから、さっさと入っちゃいなさい。それと、お父さんは明日早いから、もう寝ちゃったわよ」
 年頃の娘にしつこく詮索するのもどうかと思ったのか、遅くなった理由を深くは聞かず、その代わりに牽制として、父親がもう寝てしまったという情報を伝えるアキの母。どうも、『野暮用』が異性関係であると勘違いをしているようだ。
「はーい。わかった」
 アキは、そんな母親の勘違いを少し面倒くさいなと思いながら、軽く返事をして流した。
 ささっと食事とお風呂を済まして、自室へ戻るアキ。早速、記憶の整理をしようと、机にノートを広げて、ペンで書き出そうとするが、疲れからか、眠気が襲ってきて、手が進まない。それもそのはずで、現在の時間では3時間ばかりの出来事であったが、未来では半日以上、緊張状態を経験してきたのだ。疲れで眠くなるのも無理はない。
本当は寝る前に記憶の整理をしておきたいと思っていたが、疲れた頭で考えても仕方ないと、眠気に身を任せ、そのままベッドへと潜りこんだ。

 目が覚めると、頭の中はスッキリしていた。いつもより1時間早く目が覚めたので、朝の時間を使って、未来での出来事を整理することにした。

 ☆ 未来での出来事(時系列順)

 時空転送装置で未来へ着く
 ↓
 ショーコと高遠の様子がおかしいので逃げる
 ↓
 スピードスター事業所のみんなの様子もおかしいので逃げる
 ↓
 自宅へ帰ろうとするが、自宅が削り取られている
 ↓
 途方に暮れたところに日比谷アッシュに助けられる
 ↓
 未来のショーコさんと会って、『相馬丸』をもらい、過去へ戻る

「よし! 大体こんな感じだったはず」
 アキは、箇条書きしたページを切り取って、出かける準備を始めた。

「いってきまーす!」
「はい、いってらっしゃい。あんまり遅くならないようにね!」
「はーい!」
 よく寝てスッキリしたし、記憶の整理も出来たしで、軽やかな気分で家を出るアキ。向かうのは、いつものバイト先、スピードスター事業所だ。
 居住区からは通勤、通学する人々がバスを待つ行列を作っている。アキはいつもの光景に安心し、その横を颯爽と駆け抜けて、商業区へと向かった。商業区の街並みも、おなじみの景色で、いつも見る雑貨屋に、パソコンショップ、レストランに、コラボカフェ。ビルの高い位置には、今期のアニメのキャラクターを前面に出した広告が掲示されている。
(ああ…、ちゃんと帰ってきたんだ…)
 アキは、自分が未来から戻ってきたという実感を街並みから得つつ安心する。そうこうしていると、事業所の前に到着した。

「おはようございまーす!」
 元気よく事業所へ入り、タイムカードを切るアキ。山下とテツオはすでに出勤しており、二人でコーヒーを飲みながら談笑していた。
「おう、アキ! 今日はいつもより早いじゃねーか!」
「あ、おはよう、アキちゃん。ハハ…」
「あ…」
 いつも通りの様子のテツオと山下に少し感動して、アキは少し涙声になりながら、
「あの、二人はいつもの二人ですよね…?」
 と、自分でも何を聞いているんだろうと思うような、おかしな質問をする。
「あ? 何言ってるんだ? 頭でもぶつけたか?」
「ハハ…、アキちゃん、何かあったのかい?」
「あ、いえ! 何でもないです。良かった…」
 未来で見た悪夢のような現実とは、違ういつもの日常。その安心感にほっと胸をなでおろすアキ。だが、ほっとする反面、このいつもの日常が3年後には壊れてしまうという事実に恐怖し、何とかして食い止めなければと決意を新たにする。

「今日は、〝超急〟のみで、午前中に4本、午後に1本。かなり暇だねー、ハハ…。二人で手分けして、お願いね」
 テツオとアキは、山下から荷物を受け取り、レース前の陸上選手のようにストレッチをしながら、気合を入れている。
「よっしゃ! いっちょ配ってくるか!」
「テツ先輩! 件数同じですし、戻るの遅い方がジュース1本おごりね!」
「おお、負けねえぞ!」
「ああ、二人とも、くれぐれも事故とかには気をつけてね、ハハ…」
 二人は目配せで山下に返事をすると、事業所を飛び出した。

 勝負は、アキの勝ちだった。
「はぁー、ついに私もテツ先輩を超えるときがきたのかー…」
 遠くを見つめ、わざとらしく感慨深げな表情で勝利のMOXコーヒーをゴクゴクと飲むアキ。
「いやいや、俺の方が圧倒的に荷物重かったし、配達場所間の距離もあったし、でなあ…」
「荷物の重さは、男の子なんだし当然のハンデですよー。距離もテツ先輩の方が年上なんだしー」
 言い訳じみた言い方のテツオに対して、茶化すように返すアキ。
「男の子だからってのは百歩譲って良しとしても、年上ってのは解せん。この仕事は、むしろ若い方が有利だと思うぞ…」
「まあまあ、テツ先輩。素直に私の方が速いって認めましょうよ! ねっ!」
「たしかに、アキは速くなったよ…。俺はもうダメかもしれん…」
「ああっ! テツ先輩、そういう感じじゃないです! 私が求めているのは…。そういう言い方は寂しいからやめてくださいよぅ…」
 二人は午前の配達を軽々と終えた。午後の分はテツオが引き受け、アキは急に入るかもしれない個別案件に備えて、事務所で待機することになった。
 結局、個別案件は入ることはなく、アキは定時でタイムカードを切り、足早にショーコの元へと向かった。

⑩ 時空管理人クロノス

 相馬丸は、口に含んだ瞬間、脳内をハンマーで殴られたような感覚になるほどの強烈な甘さで、一瞬クラッとしたが、確かにショーコの言うとおり、加速衝動は起きない。
 いつもであれば、こんなに甘いものを口にしたら、一瞬で加速衝動に心を支配されて、すぐにでも飛び出してしまいそうなところだ。
 トンネル状の時空転送装置の前で、クラウチングスタートの格好で待機するアキ。転送準備が出来ていないのか、強化ガラス性の自動ドアは、まだ閉まっている。
 アキは、相馬丸を口の中で転がし、モニター前に待機するショーコをちらりと見遣る。
「アキさん、あと13秒待って…!」
 ショーコは何やら忙しない様子で、モニター前のパネルを両手で高速タッチしながら、視線は外さずに、こちらに声を掛ける。
 まるでゲームセンターでよく見かける〝音ゲー〟プレイヤーみたいだなと思いながら、アキは、ショーコに向けて、黙って親指を立ててOKのサインを出す。
「……。………。…………これで、オッケーっと!」
 ショーコは、高速タッチの手を止め、パネル上の文字を左から右へ目で追い、最終確認を終えると、パネル横にある自動ドアの開閉ボタンを、キーボードのエンターキーを勢い良く押す感じで、『…ッターン!』と叩いた。アキの前の扉が開き、時空転送装置内の照明が手前から奥へと順に灯っていく。
「さ、アキさん。頼んだわよ…! 人類の未来、あなたに託すわ…! 加速して!」
「はい!」
 先程までアキの口の中で転がされていた相馬丸はほとんど溶けていた。アキは、元気よく返事をすると、時空転送装置内へと駆け出した。
 加速衝動はなかったが、加速を始めると、アキは自分でも、いつもよりもスピードが出ているのがわかった。過去から未来へ加速した際には、加速衝動のせいで、自分ではよく分からなかったが、今回は『速さ』を実感出来ていた。初速で時速200キロメートル、その後ぐんぐんと加速し、最高速度でマッハ0.8―時速1000キロメートルにも迫る速度で駆け抜けた。
(なにこれ、チョー気持ちいい…!)
 アキは、全身が泡立つ感覚を覚えた。爽快感が頭の中を支配し、全身を気持ちの良い風が通り抜ける―というよりは、気持ちの良い風に全身が溶けて一体化する感覚だ。そんな爽快さに酔いしれていると、辺りは黄色い光に包まれ、転送が始まったことがわかった。
 ショーコは、アキの様子をモニターで観察しながら、最高速度に合わせて、量子情報の解析ボタンを押し、『解析完了』の表示を確認すると、『転送』を行った。
「過去の私によろしくね…。アキさん…」
 モニター上のアキの姿が消えるのを確認したショーコは、ほっとため息をつき、安心しきった表情で、
 ――その場から消えた。
 ショーコが立っていた場所は、空間ごと削り取られ、〝クレーター〟が出来ていた。

 目を覚ましたアキは、混乱していた。
(ここ…どこ…?)
 加速した先は、元いた時代の量子力学研究所の時空転送装置内だとばかり思っていたが、今いる場所―というより空間―はよくわからないところだった。
 まず、とにかく暗い。が、真っ暗というわけではなく、薄暗いという感じだった。
 次に、辺りを見回すと、まるでプラネタリウムの中にいるような光景が展開されていた。ただ、プラネタリウムと違うのは、視線の先にあるのが、〝満天の星々〟ではなく、〝歪んだ形をした無数の時計群〟であるということだ。
 さらによく目を凝らすと、個々の時計の周りには小さな映像が映し出されていた。映像の詳細は遠くてはっきりと確認出来なかったが、ジャングルであったり、何やら騎馬隊が合戦をしていたり、ビル群が映し出されていたりと、様々な時代の映像であることはわかった。ぐにゃりと歪んだ時計も、その隣に映し出されている映像も、空いっぱいに数え切れないほどあり、星空のようにキラキラと煌めいていた。
(…って、空? 何なの、夢の中…?)
 アキは、自らのほっぺを軽くつまんでみた。うん、たしかにつまんだ感覚はある。というか、そもそもきちんと地に足がついてるし、意識もはっきりしている。地面を見ると、床一面黄土色をしており、さらに床には謎の文字がびっしり書かれており、古代文字を記した石版を敷き詰めたみたいになっている。よくわからない空間だけど、ここが現実であることは間違いない。
 ふと、顔をあげると、目の前に扉があることに気づく。その扉はどうやって支えられているのかよくわからないが、地面に立っている。扉を開けてみると、向こう側が見渡せたが、今いる空間が先に広がっているだけだ。とりあえず、扉をくぐってみると、辺りが少しだけ明るくなったような気がした。と同時に、右手前方に新たな扉が出現した。ますますわけが分からなくなったが、この謎空間に、ただ突っ立っていても仕方ないと、アキは次の扉をくぐる。またも少しだけ辺りが明るくなり、今度は左前方に新たな扉が出現した。左前方の扉をくぐると、目の前に上り階段が現れた。階段は地面からゆるやかに空中へと伸びていた。これまたどうやって支えているのかわからないが、一段、二段と踏みしめてみて、崩れる心配はなさそうだということを確認して、一歩ずつ上ってみる。階段を上っているが、上に上った感じはしない。一段一段進むにつれて、その一段一段が足元へと消えていく。下りエスカレターを逆走しているような感じだ。階段を上り終え―階段が足元から完全に消え、辺りを見渡すと、今度は後方にぼうっと光る祭壇のような場所が現れた。ゆっくりと近づくと、祭壇の前に誰かが立っている。立っているが、動いていない。ピタリとマネキン人形のように固まっている。その〝人形〟は、全身白のドレススーツで、白銀の髪に白のハットを被っている。全身白のコーディネートのアクセントと言わんばかりに、ハットにまかれているリボンだけは黒で、際立っている。
「キレイ…」
 その〝人形〟の透き通るような美しさに目を奪われ、アキは思わず声が漏れる。
 すると、アキの声に反応するように、その〝人形〟はアキに優しく微笑みかけた。
「あ…」
 アキは、その表情の美しさに目を奪われ、いきなり動き出したことにびっくりする暇もなかった。
「久しぶりのお客様ですわね。はじめまして。わたくし、フロンティアの時空管理人を務めております、クロノスと申します」
 〝人形〟だと思っていた女性は、クロノスと名乗り、スカートの両端を両手で軽く持ち上げ、足をクロスさせて丁寧にお辞儀をした。
「あ、えっと。はじめまして…。私は天道アキです…」
 クロノスの礼儀正しい挨拶を受けて、アキは、自分の置かれた状況を聞くよりも先に、反射的に自己紹介をしていた。
「天道アキさん。良いお名前ですわね。ここへ来たということは、何か大きな時間の歪みに巻き込まれたということですわね。お気の毒に…」
「あ、巻き込まれたというか、自分で巻き込まれたといいますか…。あの、時空転送装置っていって、私、3年後の未来から過去へ戻ろうとしていて…」
 初対面の人間に、何から説明したものか戸惑い、ちぐはぐな説明をするアキ。
「ああ、そういうことですのね。それならば、お仕事の時間ですわね…」
 クロノスは得心したといった様子で、両手をアキに向かって伸ばし、手のひらを上に向けた。すると、その両手から、光る水晶のようなものが浮かび上がってきた。
「あなたが、過去へ戻るには、どちらかの記憶を選択せねばなりません。さあ、選びなさい」
 そう言うと、クロノスの両手の平の上に浮かぶ水晶に、アキが経験してきた未来の映像が映しだされる。右手の水晶には、『ショーコから相馬プログラムのチップを受け取った』シーン、左手の水晶には、『公園で途方にくれる自分に、アッシュが声をかける』シーンがそれぞれ映し出されていた。
「選択すれば、あなたを過去に戻しましょう。選択しないのであれば、私が、このまま時空の牢獄に幽閉して差し上げましょう」
 礼儀正しい仕草は崩さず、丁寧な言葉づかいで何やらおっかないことを言い始めるクロノス。その瞳から先程までの優しさが消え、カッと目を見開いてアキを見つめていた。
(クロノスさん、目、恐っ…! よくわからないけど、これ、完全に〝仕事モード〟の目だ…)
 アキは、クロノスの視線に気圧されながらも、
「あの、少し考えさせてもらってもいいですか…?」
 と、クロノスに猶予を請う。
 クロノスは、いいでしょうと言わんばかりに、少し俯いて長めの瞬きをした。それをOKの合図と見て、アキは考える。
(なんだか、よくわからないけど、このクロノスさんって人、時空管理人っていうくらいだから、あれね、きっと時空警察みたいな。過去に記憶を持ち帰って悪いことをする輩を取り締まる的な。それで、どっちか選べってことね。えっと、右手には『相馬プログラム』、左手には『アッシュ』。|選んだ方《・・・・》の記憶を過去に持ち帰ることができるってわけか。うーん…。まあ順当に考えれば、右手の『相馬プログラム』に決まってる。アッシュには申し訳ないけど、未来のためだし…。人類の第1、第2の過ちを正せば、AIに支配される未来は救える。でも、アッシュにはお礼を言いたいし、もう一度きちんと話をしておきたいし…)
 右手の人差し指と親指を顎にあて、左手で右の肘を抱えながら、目を閉じて考え込むアキ。薄目でチラっとクロノスを見ると、
(…ってよく見ると、クロノスさん、すっごいこっち睨んでる気がするんですけど…。さっきから全然瞬きしてないし…。ってよく見ると、目血走ってない…?)
「…決まりましたでしょうか?」
「あ、もうちょっと待ってください」
「…わかりました」
 クロノスは依然として目を開いたまま、アキの選択を待つ。
(っていうか、そもそも両方とか選べないのかしら。どっちも捨てがたい…。両方お願いしますとか言ったら怒られるかな…。まあでも、『選択しない』のであれば、時空の牢獄に幽閉とか言ってたし、両方を選択するってのは、『選択しない』とみなされるかも…。そうなるとやばいな…)
 考え込むアキ。
(ん…? あれ、クロノスさん、ちょっと涙目になってない? あ、目が乾いてきているのね…! あの水晶を維持するのに目を開き続けるみたいな条件があるのかしら。このまま様子を見てみるのも…)
 目が乾いて、涙目になりながらも、カッと更に目を見開き、無言でアキへと選択を迫るクロノス。
(わ! めっちゃ目見開いてる…。やばい。これは怒らせてしまうかも。普段おとなしい人ほど、怒ると恐いのよね。クロノスさんの眼球をいたわってあげて、さっさと選択してあげないと…)
「えっと、決まりました。あの、こっちで…」
 アキはクロノスの右手の水晶を指差し、『相馬プログラムのチップを受け取る』方を選択した。
 アキが考えている間、無言になっていたクロノスは、
「あなたの選択、しかと承りましたわ…」
 と、短く言うと、アキが選択した|右手《・・》の水晶を握り潰した。
 パリンという小気味いい音がして『相馬プログラムを受け取る』映像は粉々になって地面へと落ちていく。
「え…! ちょっと…!」
 ――やられたっ! 詐欺に引っかかったと理解した瞬間の背筋がゾクゾクするような寒気を感じて、アキは、
「ちょっと、待って、話がちが…」
「天道アキ。あなたを過去へと戻しましょう。それでは…」
 アキの抗議を遮るようにクロノスは言葉をかぶせて、左手の水晶をアキの胸に押し付けると、水晶はアキの体内にスーッと入り込み、その瞬間、足元からまばゆい光が溢れ、アキは、時空管理人の前から姿を消した。

「相馬プログラム…。そんな大規模な時間干渉、この私が許すわけないじゃない。バーカ…」
 クロノスは、先程までの丁寧さはどこへやら、アキがいた空間にあっかんべーをすると、ドレスのポケットから目薬を取り出して、乾いた両目を潤した。
「キターーーーッ! この乾いた目が潤う瞬間が気持ちいいのよね」
 そう言い残し、祭壇の後ろにある扉へと消えていった。

⑨ 相馬プログラム

「それで、ショーコさん、このAIに支配された|未来《いま》を変えるためにはどうすれば…」
 と、アキが切り出そうとすると、
 …くぅ。
 小動物の鳴き声のような控えめな音がアキのお腹から鳴る。
「あ…」
 思えば、未来に来てから何も口にしてない。
「あら、お腹空いてるのね。何か食べながらお話しましょうか」
 ショーコはそう言うと、テーブルに備え付けられているメニュー表を開き、アキに差し出す。
 アキは何か甘いものを食べたい気分ではあったが、つい今しがたスティックシュガー5本入りの甘い甘いミルクティーを飲んだこともあり、これ以上糖分を摂取すると、加速衝動に駆られそうだと判断し、サンドイッチを注文した。それに合わせてショーコは追加でお冷を2つ注文した。

 テーブルに置かれたサンドイッチは、厚切りのトーストに、ベーコン、レタス、トマト入りのいわゆるBLTサンドで、中々のボリュームだ。アキは、そっと両手を合わせて、「頂きます」と控えめに言うと、その小さな口を大きく開けて、口いっぱいに頬張る。ショーコは、お冷に浮かぶ氷を指先で転しながら、アキがサンドイッチを頬張る様子を、母親が子供を見守るような優しい眼差しでニコニコと見つめていた。
「ほへで、ひょーこはん、はくってひふのは(それで、ショーコさん、策って言うのは)…」
 サンドイッチをもぐもぐしながら、アキが切り出す。
「こらこら、アキさん。もぐもぐしながら話すなんてはしたないわよ」
 そう言うと、ショーコはアキの口元についているケチャップを指先で拭って、ペロリと舐める。
「あ…」
 アキは、ショーコの艶めかしい仕草に、ちょっとドキっとして、頬を染めた。口の中のサンドイッチをよく噛んで、コクっと飲み込み、
「ごめんなさい。結構お腹空いてたみたいで、つい…」
 えへへと照れ笑いしながら、お冷を一口飲む。
「そんなにお腹空いているなら、先に食べちゃいなさいな。その間に計画を説明するための準備をするわ」
 ショーコは、白衣のポケットからメモ帳とペンを取り出し、長い矢印ようなものを書き始めた。アキは、残りのサンドイッチをモグモグしながら、ショーコの書く図を眺めていた。
 サンドイッチを食べ終えると、メモ帳には、始点と終点そして真ん中に日付が書かれた長い矢印が描かれていた。ショーコは始点に書かれた『2017/5/5』に丸をつけて、
「ここが、アキさんが未来へ転送された日付ね…」
 と、説明を始めた。
 ショーコの説明によれば、完全自立思考型AI―通称『ニューロ』が誕生した2019年12月31日を、『技術的特異点』あるいは単に『特異点』と呼び、『特異点』の前後で起きた『人類の3つの過ち』を過去に戻って防いでもらうために、アキを未来へ送ったということだった。
「へ? ということは、私がいた時代のショーコさんは、未来がこうなることを知っていたんですか…?」
「いいえ。知らなかったわ。ただ…、一つの可能性として予想はしていたわ。まあ、まさかこんなにひどいことになるとは思っていなかったけれどね…。人類が、自ら生み出した技術に蹂躙されるなんて…ね。科学は…、科学技術は、生み出した人間がきちんと責任を持って管理する必要があるわ。生み出した|技術《モノ》が人類に利をもたらすか、害をもたらすか、そんなのは世に出してみないとわからない。けれど、|技術《それ》が人の手を離れて、管理不能な状態になるのだけは、決して避けないといけない。これが科学者としての矜持よ」
 ショーコは珍しく苦い表情をしていた。
「…話を戻しましょう」
 自らの感情をリセットするようにショーコは言い放ち、メモ帳に書き込みながら説明を再開する。
「『人類の3つの過ち』すなわち、
 1.『相馬ショーコによる技術供与』
 2.『マクマードプログラムの欠陥』
 3.『日比谷アッシュによる扇動』
 この3つのうち、1と2に関しては『特異点』の前で起きた出来事、3に関しては『特異点』の後に起きた出来事ね。過去に戻ってもらってまずやってもらいたいのは、1と2への『介入』よ」
「『介入』? 『阻止』ではないんですか…?」
「ええ。2017年5月5日、アキさんを未来へ転送した日の時点で、私は、すでにマクマード博士に量子コンピュータ技術の大部分を提供してしまっているわ。だから、阻止するのは不可能。そこで…」
 そう言って、ショーコは白衣のポケットからケースに入った小型チップを取り出す。
「これは…?」
「『相馬プログラム』よ! これを、過去の私に渡して欲しいの」
「『マクマードプログラム』の修正版ってわけですね!」
「そう。そもそも、マクマード博士の発想は、人工知能の―人間の心理をわかっていないわ。『人類に敵意を持ったら強制終了する』なんて〝脅されたら〟、誰だってそれを避けようとするものよ」
「『相馬プログラム』っていうのは、どういう内容なんですか?」
「『人類の管理下にある時に強い幸福感を感じる』というプログラムよ。そもそも、完全自立型のAIを生み出した時点で、それはもはや人間を作るのと同義。『ニューロ』は単なる技術ではなく、人間なのよ。だから、『制御』ではなく、『モチベート』してあげる必要があるわけ。この辺りは、研究者としてというよりは、その研究者の教育哲学が現れる部分ね。マクマード博士の助手は苦労してると思うわ」
 アキは、話を聞いて感心する反面、ショーコの助手の高遠も相当に苦労しているだろうけど、と思いながら、苦笑いを浮かべた。
「とにかく、この『相馬プログラム』を、過去の私に渡すというのが、アキさんの第1のミッションよ」
「わかりました!」
 アキは、『相馬プログラム』のチップを受け取った。
「そして、次のミッションは…」
「アッシュですね…」
「そう。日比谷アッシュ。過去の彼と何とかしてコンタクトを取って欲しいの。『相馬プログラム』が機能すれば、今のように人類がAIに支配される世界なんてものは訪れないでしょうけど、念には念をってやつね。ただし、彼を決して信用しないこと。なんてったって、〝800万人をこの世から消した〟人間なのだから…」
「そう…ですね。アッシュとはもう一度きちんと話をしてみたいと思っていましたし…」
 未来で途方に暮れる自分を救ってくれた恩人であるアッシュが、|〝800万人をこの世から消した〟《そんなことをした》という事実を受け止めきれていないアキは、複雑な表情でうつむき、両手の指を絡めてテーブルの上に置く。
「アキさん。ダメよ。そうやって考え込ませるのも、彼の手口かもしれないわ。何かあれば、すぐに私に相談しなさい。未来でも過去でも、いつの私もアキさんの味方よ」
 そう言って、ショーコはテーブルの上に置かれたアキの手を両手で包みこむようにして握った。
「ところで、ショーコさん。私、どうやって過去に戻ればいいんですか?」
「ああ、それなんだけど、私のかつての研究所―アクセルにある量子力学研究所の『時空転送装置』を使って戻ってもらうわ。|ノア《ここ》の中にも研究室はあるんだけれど、手狭なせいで、大掛かりな装置は作れなくてね」
「えっと、でも大丈夫なんですか? アクセルにはAIがうろついてますし、研究所には、ショーコさんの〝偽物〟だっていますけど…」
「ああ、それなら大丈夫よ。マクマードプログラムの効果で、AIにとって人間はあくまで中立。直接攻撃してくることはないし、話しかけられても適当に返事をして話をあわせておけば問題はないわ」
「あ、そっか。そしたら、ここまで来るのにビクビクしなくても良かったんですね…私」
「ああ、でも、〝説得〟してくることもあるから、それには耳を貸さないように注意ね。詳しくは向かいながら話すとしましょう」
 アッシュが残していった代金と、追加で注文したBLTサンドの代金の合計を支払い、ショーコとアキは喫茶店を後にした。
 ノア内部の案内などもなく、善は急げと言わんばかりに足早に歩くショーコに連れられて、アキは来た道をすぐに引き返し、アクセルへの量子テレポ装置へと向かった。

 ノアからテレポしてきたアキが目にしたものは、見覚えのあるモニタールームであった。
「あれ、ここは?」
「あら、ごめんなさい。説明し忘れてたわね。本来量子テレポは、転送カプセルがある場所ならどこへでもテレポ可能なの。ただ、AIの侵入を防ぐために、ノア|への《・・》テレポは、各地区に一つずつ配置された|暗号つき《・・・・》の転送装置からしか入れないわ」
「って、ことは、ここは量子力学研究所…?」
「そうね。そして、幸いなことに今、〝偽物さん達〟は留守みたいね。さっさと過去へ戻りましょうか。はい、これ」
 そう言うと、ショーコはまたも白衣のポケットから小さなビンを取り出した。アキは、ショーコのポケットから色々なものが出てくる様子を見て、まるで某ネコ型ロボットの『4次元ポケット』みたいだなんて思いながら、小ビンを受け取る。
「なんですか、これ?」
「アキさんのための『魔法の薬』よ。経口摂取でも、静脈摂取と同等、いえ、それ以上の糖分を体内に取り込むことができるわ。さらに、初期加速衝動も抑えてくれる万能薬ね。私としては、アキさんのお尻に座薬を挿入してあげたかったのだけれど…」
 ふざけて妖艶な眼差しを送るショーコに対して、アキは身体をすくめて、両手をお尻にあてた。
「…もう、ショーコさん、ふざけるのはやめてくださいよ!」
「さて、とりあえずその小ビンには、『魔法の薬』―開発者であるこの天才の名前を冠して『|相馬丸《そうまがん》』とでも名付けましょうか―が3粒入っているわ。まだ試作品でたくさん作るのが難しかったの。ごめんなさいね。今から1粒使って過去に戻ってもらって、残りは|過去《あっち》で何かあったときのために持っておくといいわ」
 たしかに小ビンの中には、親指ほどの大きさの丸いドロップのような薬が3粒入っていた。
「さ、名残惜しいけれど、偽物さん達が戻る前にさっさと転送しちゃいましょう。アキさん、相馬丸を一粒食べて、転送装置へ!」
「はい!」
 アキは相馬丸を口に入れ、時空転送装置の入口でクラウチングスタートの体制を取った。

⑧ 人類の3つの過ち

「今からちょうど半年ほど前になるわね。2019年12月31日、この世界のルールは変わってしまったわ。人工知能―AIの研究が行き着くところまで行き着いた結果、人間と同じ思考能力を持つ、〝完全自立思考型AI〟が完成したの。開発者は、ジョン=マクマード博士。私と同じノイマン財団の資金援助を受けて研究をしていた研究者で、脳科学者よ。彼は、AI第1号の名を『ニューロ』と名付け、世間に発表したわ。世界はこの『研究成果』を『人類の大いなる一歩』として歓迎したわ。ところが…」
「ああ…。ショーコさん、私、なんとなく話が見えてきました。その人工知能、にゅーろ? とやらが、世界を乗っ取ったってわけですね?」
「そう。相変わらず察しがいいのね。アキさんのそういうところ、好きよ。ただ、話はそう単純でもなかったの」
「と、言うと…?」
「『ニューロ』を生み出したマクマード博士とその研究チームも、完全自立思考型のAIが世界を牛耳るなんてシナリオは当然想定済みで、そうならないための予防策を打っていたわ。『ニューロ』に隠しプログラムを仕込んでおいたの」
 『ニューロが人間に|敵意《・・》を持ったら、自動停止する』
「通称〝マクマードプログラム〟。これが人類の第|2《・》の過ちだった。というか、話をしていて頭にくるわね。マクマードって本当に脳科学者だったのかしら。人工知能をナメすぎよ。人間の脳みそだってそんな単純なつくりはしていないってことくらい分からなかったのかしら…ブツブツ」
 何やら怒り心頭の様子で、レモネードのストローをガシガシと噛み始めるショーコ。
「あのう、ショーコさん…?」
「ああ、ごめんなさい。例の〝予防策〟があまりにもお粗末過ぎて、天才であるこの私としたことが、イライラしてしまったわ…」
「でも、人間に|敵意を持たない《・・・・・・・》なら、『ニューロくん』は人類に|友好的《・・・》だったってことですよね?」
「いいえ。『ニューロ』が取った行動は|中立《・・》よ。つまり、敵意も好意も抱かない宙ぶらりんの状態を取ったの。『ニューロ』には、量子コンピュータの技術が応用されていて、幾億通りの可能性を同時に思考して、その中で最適解を見つけることができる〝スーパーな脳みそ〟が搭載されていたのよ。って、他人事みたいに言ってるけど、技術供与したのは、この私なんだけどね…。これが人類第|1《・》の過ちよ」
「|中立《・・》ってことは…」
「そう、自動停止なんてしない。というか、そういったプログラムを生みの親に組み込まれているという事実すら、『ニューロ』にとっては可能性の範疇。つまり想定済みだったわけ」
「『ニューロくん』ってすごく頭がいいんですね…」
「そう! なんてったって、『ニューロ』の思考回路の大部分は、この天才、|しょうましょーこ《・・・・・・・・》が作ったんですもの! …って、そんなこと言ってられないわ…」
 一瞬いつもの覇気を取り戻したかに見えたショーコだったが、自らが人類最初の過ちを下してしまったという事実を再認識し、しゅんとなる。
「…んっん! 話を続けましょう。アキさんに質問なんだけど、あなたにとって、敵でも味方でもない存在が近くにいたら、どうする?」
「えっ…、うーん。どうでしょう。何もしないというか、当たり障りのない感じに接すると思います…」
「そしたら、もう一つ条件を付け加えるわ。その敵でも味方でもない存在が、ものすごーく〝おバカさん〟だったとしたら?」
「うーん。なるべく近寄らないようにするかも…」
「それでも、向こうから積極的に近づいてきたとしたら?」
「自分に害がないなら適当にスルー…ですかね」
「逆に、自分に得があるとしたら? 例えば、そうね、いつも甘いお菓子をタダでくれるとか。うーん、ちょっと違うわね。くれるというよりも、目の前で落とすの。いつも『そいつ』の近くに甘いお菓子が転がってるの。で、当の本人はそのことに気づかないし、落としましたよって教えてあげても、〝おバカさん〟だから、自分じゃないですとか言って受け取らない」
「ああ、それなら近くにいて欲しいです! お菓子製造機ですね!」
「そう。中立って立場は、時に『利用関係』へと変質するのよ。頭の良い方が頭の悪い方を利用する。頭の悪い方は利用されていることに気付かず、利用され続ける」
「あの、それって…」
「例え話から本題へ戻すわ。『ニューロ』はとんでもなく頭が良いの。人類なんて到底及ばないほどの頭脳を持っているわ。そんな『ニューロ』からしたら人類なんて虫けらほどの頭脳しか持っていない〝とんでもないおバカさん〟なのよ。そんなことも気づかず、人類は『ニューロ』を歓迎した」
「その結果、人類は利用されてしまったというわけですね…」
「その通り。ただし、『ニューロ』はあくまで人類に対して中立、言ってしまえば、隣人。近づかなければ、特に何もされないわ。ただ近づいた人間は…」
「………どうなったんですか?」
「懐柔されたわ」
「かいじゅう…?」
「うまく言いくるめられて、抱き込まれたってことよ。『ニューロ』の奴隷になったと言い換えてもいいわ。『ニューロ』がまず最初にやったことは、仲間集め。自分と同じような存在を増やしていくこと。アキさんが、|ノア《ここ》に辿り着くまでに出会ってきた『奴ら』と呼ばれる存在。あれは人間の皮をかぶった『ニューロ』の奴隷よ」
「………」
 アキは未来で出会った気味の悪い|人間《・・》のことを思い出し、複雑な表情でうつむく。と同時に、疑問が生まれ、ショーコに問う。
「でも、待ってください! 私、ここに来るまでにショーコさんにも会いました…! 例の『質問』を投げかけたらおかしくなっちゃいましたけど…」
「ああ、あれは私ではないわ。クローン人間というと分かりやすいかしら。私の生体情報を元に作られた人工知能体よ」
「ってことは、ショーコさんも『ニューロ』の奴隷に…?」
「それは違うわ。私は私、それ以上でもそれ以下でもない。決して『ニューロ』に魂を売ったりはしないわ。ここで人類第|3《・》の過ちについて説明をするわ。本来、『奴ら』になるプロセスというのは、何らかの形で『ニューロ』に生体情報を奪われ、|複製《コピー》を作られるところから始まるの。コピーが出来上がると、非合理的なことを嫌う性質の『ニューロ』にとって、コピー元のオリジナル―つまりは、本来の人間―は世界を最適化する上で邪魔な存在でしかなくて、何とかしてオリジナルを消そうとするの。オリジナルが消されたら、残るのは、人間の皮をかぶった『奴ら』のみってわけ」
「…消すって」
「といっても、〝マクマードプログラム〟のせいで、『ニューロ』は人類に|敵意《・・》を持つことは出来ない。だから、|中立的な隣人《・・・・・・》として、オリジナルを|説得《・・》するのよ。あなた、この世から消えた方がいいですよって」
「…そんなこと可能なんですか? この世から消えたいと思う人なんて…」
「あら、そうでもないわよ。人生なんてクソゲーだ。苦しまずにこの世から消えてしまいたいなんて思ってる人、結構いると思うけど?」
「…たしかに、そういう病んでる人には有効かもしれませんけど…」
「まあ、これは極端な例ね。とは言え、実際こういう病んでる人は早々に、あっけなく、この世から〝退場〟したわ。アクセルの居住区の惨状を見たでしょ? あれは『ニューロ』によって空間ごとまるまる削りとられて、文字通りオリジナルが消滅した痕跡なの。あくまでオリジナルの同意の上でね」
「…ってことは、アクセルのみんな、お父さんやお母さん、テツ先輩も…?」
「残念ながら、そうなるわね。というか、アキさん、あなたもよ…」
「…! そんな…。私、この世から消えたいと思うことなんて、一度も…」
 と、言いかけて、ふと〝困惑のスポーツテスト事件〟のことがアキの脳裏によぎる。あのときは、たしかに、なんとなくこの世から消えてしまいたいと思ったような気がしないでもない。
「そう。問題は、この世から消えたいと思っていなかった人々も次々と消えてしまったこと。その原因が、人類第|3《・》の過ち、日比谷アッシュの存在よ」
「…どういうことですか?」
「さっきも言ったけど、彼は天性の素質を持った『詐欺師』なの。まさか、心を読める異能力を持っていたなんて知らなかったけれど、色々と納得したわ。彼のせいで、本来消えたいなんて思ってもいなかった人たちも、思考を誘導され、『ニューロ』との〝取引〟に判を押すことになった…。なにせ、フロンティアに存在する15地区全域の80%、数にして800万人の人間が彼のせいで、納得した上で消えてしまったのだから。言ってしまえば、彼は『ニューロ』にとっての絶好のビジネスパートナーってやつだったわけね」
「そんな…。アッシュは…そんな悪い人には思えなかった…」
「それって、思考誘導されてるんじゃない? アキさん? 未来へ来て色々と不安になっていたところに現れた救世主だものね。白馬の王子さま的な。たしかに、顔はそこそこカッコよかったわね」
 ニヤニヤとアキを見つめるショーコ。
 白馬の王子様って言葉が乙女心をくすぐり、一瞬そうなのかなと思って、少し頬を赤らめるアキだったが、即座に否定した。
「…そんなんじゃないですってば!」
「…って、冗談はさておき。彼の目的が何なのかは分からないけれど、『ニューロ』の計画に加担した彼も、悪いことをやっているなんて意識はなかったのかもしれないわね。良かれと思ってやった。それはそれで厄介極まりないけれど…。何にせよ、彼とは今は関わらない方がいいわ」
 ひとしきり話を終える頃には、テーブルの上に置かれたミルクティーとレモネードは飲み干され、アッシュの頼んだブラックコーヒーだけが半分以上残されたままだった。

「以上が、未来のフロンティアで起きている出来事。今、このノアに残された人間は、フロンティア各地から『ニューロ』による|説得《・・》を逃れてきた人々よ。ノア内部に、『奴ら』が侵入してこないように、テレポ装置に仕掛けをしておいたわ。あと、電波傍受されないようにもね。まあ、『はい』と言わなければ、オリジナルの|人間《わたしたち》が消されることはないから、各地にバラバラにいても良いのだけれど、自分の皮をかぶった人工知能体から、隣人として消えるように説得される毎日なんて、それだけで、それこそ消えてしまいたくなりそうでしょ?」
 だから、こうして残された人類は一つの場所で身を寄せて生活しているのだそうだ。
「どう? なかなかにハードモードでしょ?」
「そうですね…。頭を抱えたくなるくらいには…」
 興味本位で未来に行ったみたいと思っていたあの頃の自分には全く想像もつかないハードさだ。まさか、人工知能によって人類存亡の危機に陥っているだなんて。
 ただ、これは紛れもない未来の、しかも遠くない未来―たったの3年後―の話なわけで、うかうかしていたら、あっという間に現実になってしまう短さだ。
 空になったカップのふちを指でなぞりながら、どうしたものかと考え込むアキだったが、ふと目の前の白衣姿の|天才《・・》の顔を見て、
「…あ、でもでも! ショーコさんは、この状況を何とかするために私を未来へ転送したんでしょ? 何か策があるってことですよね?」
「ふっふっふ…。当たり前じゃない! 私を誰だと思っているの? フロンティアが生んだ奇跡の天才、いえむしろフロンティアの軌跡そのもの、天才、相馬ショーコ|しゃま《・・・》よ!」
 せっかく名前を噛まずに言えたのに、普段つけない『様』とかつけちゃったせいで、噛み噛みになるショーコであった。

⑦ ショーコとの”再会”

 |日比谷アッシュ《ひびやあっしゅ》と名乗る見ず知らずの青年に声を掛けられて戸惑うアキだったが、今はとにかくショーコに電話をかけたい一心で、アッシュから携帯を借りようとすると、
「あ、使ってもいいんですけど、ちょっとこの場で電話するのはまずいので、場所を変えましょう」
「どういうこと…?」
 アッシュはアキの不安な表情から何かを読み取ると、少し言葉を崩して、
「|ここ《・・》で通信を行うと、『奴ら』の目に留まってしまうかもしれないからね。とりあえず安全な場所まで移動しよう」
 そう言うと、アッシュは、スタスタと居住区の方へ歩き出した。
 アキの不安は相変わらず拭えないままであったが、未来での奇妙な日常を目の当たりにしてきた今のアキにとっての唯一の光明は、今手にしている『本物』のショーコの連絡先であり、その連絡先への通信手段であるアッシュの持つ携帯電話であり…。とにかく、アキはアッシュの後ろをついていくしかなかった。
 アキは、先程までの奇妙な出来事が頭から離れず、警戒して少し距離を置いて歩く。そんなアキに対して、
「そんなに警戒しなくても、僕は|バグったり《・・・・・》、|二人以上に増えたり《・・・・・・・・・》はしないよ。そういうのは、『奴ら』の特権だ。まあもし、仮にそうなったら、|得意の加速《・・・・・》でまた逃げればいい」
 と、見透かしたように声を掛けるアッシュ。
「…え? なんで…そのことを…」
「ああ、驚いたかい? 僕も君と同じ|異能持ち《ホルダー》なんだ。僕の異能力は『人の心を読む』能力。その人が考えていることが手に取るように分かるんだ」

 自分以外の|異能持ち《ホルダー》を見たのは初めての経験だった。しかも未来で遭遇するとは思わず、戸惑うアキ。未来に来てから色々なことが起こり過ぎて思考の整理が全然追いついていない。
(………………)
「|未来で起きる出来事に《・・・・・・・・・・》かなり混乱してるみたいだね。まあ、道中、ゆっくり整理するといい。|おっしゃる通り《・・・・・・・》、『同類だから大丈夫ってことにはならない』んだけど、『とにかく本物のショーコさんに連絡をとるのが先決だ』ってことは事実だろう?」
(………)
「本当に全部、筒抜けなんだ…。あなたの言うとおり、もう私にはそれしか選択肢がないみたい。やんなっちゃう…」
 普段のアキだったら、『なにその力、すごい!』とテンションMAXになるところだが、状況が状況だ。ため息をつくしかなかった。
 アッシュはかつての居住区―今では不気味なクレーター地帯となってしまった地区―をどんどん進んでいく。
「まあ、安心してよ。僕は君の味方だ…なんてことは言わない。ただ、携帯電話を貸してあげる心の優しい通行人さ」
「はぁ、それはどうも…」
 選択肢を奪われたアキは、もうごちゃごちゃ考えるのをやめて、黙ってアッシュの後ろについていくことにした。

「さ、ついた。中へ入ろうか、アキ」
 アッシュに案内された場所は、居住区のクレーター群の中でもとりわけ大きく深い『穴』の目の前であった。『穴』の大きさからか、ここだけは、人が入り込めないように『穴』の周りに工事現場で目にするような簡易式のバリケードが張り巡らされている。
「ここを下った先に『入口』があるんだ。もう少しだよ」
 そう言って、アッシュはバリケードをひょいとまたぐと、そのまま穴の中心へとゆっくり滑り降りていく。アキは、蟻地獄に飲み込まれる蟻になった気分で、正直良い心地はしなかったが、仕方なく黙ってついていく。
 『穴』を滑り降りること数分。かなり深いところまで来て、もはや外の景色は見えず、『穴』の側面しか見えない。上を見上げると、夕日が沈みかけて、やや暗くなってきていた。深層へ進むにつれ、地質が変化し、徐々にゴツゴツとした岩場のようになっていく。岩場地帯を降りきると、ついに底が見えてきた。クレーターの中心部は、少し開けた空間になっており、上からは確認が出来なかったが、壁面に頑丈そうな鉄扉があった。扉の横には、ショーコの研究所で見た量子テレポ装置の電子パネルのようなものが設置されている。
「お疲れ様。|そうそう《・・・・》。ご存知の通り、量子テレポってやつ。操作するから、ちょっと待ってて」
 アッシュは額にうっすらと滲んだ汗を手の甲で拭って、パネルを操作し、
「僕は僕だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 パネルに向かって謎の『宣言』をすると、鉄扉が開いた。
「今のは…」
「|そのとおり《・・・・・》。『奴ら』と『本物』を見分けるための『暗号』みたいなものだね」
 思考を先読みされるのってあまりいい気持ちはしないけど、こっちが|思う《・・》だけでいいからアッシュとの会話は楽ね、なんて思いながらアキは扉をくぐる。
 扉の中は、エレベーターほどの広さの個室になっていた。
「キミみたいに素直な人ばかりならいいんだけどね…」
 アッシュは少し淋しげな表情で、そうつぶやき、扉を閉めるスイッチを押した。
 扉が閉まると、アッシュとアキの周りを淡く黄色い光が包み込み、転送が始まった。

 暗転した視界が開けると、辺りは青白い光に満たされていた。どうやら転送に成功したようだ。アッシュが扉を開けると、そこは、デパートや駅の地下街を思わせるような空間が広がっていた。
「アッシュ…。ここは…?」
「フロンティア第0地区。通称ノア。僕ら『本物』の人間の〝最後の砦〟だよ」
「第0地区?」
「ああ、そう。キミのいた時代にはなかった場所だ。地区と言っても、この地下街が全て。人類の居住区域も随分と狭くなってしまったよ…」
 立ち話もなんだからと、アッシュはアキを連れて近くの喫茶店へと入った。
 入口付近のテーブル席に座るなり、アッシュはブラックコーヒーとロイヤルミルクティーを注文し、スティックシュガーを5本つけてほしいと付け加えた。もちろんすべてミルクティーに入れるためのものだ。
「まずはアキ。はい、電話。ここなら『奴ら』から通信を傍受されることはないから」
「ありがとう」
 アキは、二つ折りの旧式の携帯電話を受け取ると、ショーコのメモに書かれていた番号を入力し、発信ボタンを押した。
 プルルルル…プルルルル…。
 電話の発信音が聞こえてきて、ちゃんと発信出来ていることに安堵するアキ。
 プルルルル…プルルルル…。プルルルル…プルルルル…。
 が、中々繋がらず、少し不安になりかけたその時、
 ガチャ。
 (…繋がった!)
「もしもし、ショーコさんですか…!」
「………その声は、アキさんね…!」
「……はい! アキです! ショーコさん…ショーコさぁん…!」
 安心感から少し涙声になるアキ。
「とりあえず、今からそっちへ行くわ。そこで待ってて…!」
「あ、はい…! えっと場所は……」
 アキが自分の居場所を伝えるために、アッシュに確認を取ろうと言葉に詰まっていると、
 プツッ。ツーツーツー。電話は切れてしまった。
「あ、切れちゃった…」
 すぐにもう一度かけ直すが、発信音が鳴り続けるのみで、一向に出る気配はない。
 注文したコーヒーとミルクティーがテーブルに置かれる。
 不安げな表情のアキに対して、
「|ショーコさんは天才《・・・・・・・・・》なんでしょ? なら大丈夫じゃない? すぐに駆けつけ…」
 と、アッシュが言葉をかけようとすると、喫茶店の入口に人影が現れた。
 その〝人影〟は白衣姿でこちらに背を向けて仁王立ちをしていた。よく目を凝らすとぜぇぜぇと肩で息をしているように見える。
「……ショーコさん…!」
 アキは、後ろ姿ですぐにショーコだと分かり席を立って駆け寄る。
 ショーコは、振り返って、駆け寄るアキを包み込むように、両手をいっぱいに広げて一言。
「はぁ…はぁ…。ようこそ…未来へ…アキさん。|しょぅましょぅきょ《・・・・・・・・・》。本物よ…」
 感動の再会のシーンに、これでもかというほど名前を噛み倒すショーコ。
 が、アキにはそれがたまらなく嬉しくて、未来に来てからの不安や緊張の糸がぷつっと切れ、堰を切ったように涙が溢れ出し、そのままショーコの胸に飛び込んで泣きじゃくった。
 そんなアキをショーコは優しく抱きしめた。
「不安な思いをさせて、本当にごめんなさい。アキさん…。ここまで、よく頑張ったわ」
「うぅ…うっ…えっぐ…。…よかった。やっと会えた…ショーコさん…」
「さあ、今は思う存分、このフロンティアが生んだ稀代の天才、|しょぅみゃしょうきょ《・・・・・・・・・》の胸の中で泣くといいわ…」
「うっうぅ…。ふふ…。ショーコさん、噛みすぎ…。ふふふ…」
 ショーコのあまりの噛み倒しっぷりに、泣きながらも、思わず笑みを溢すアキ。
 アッシュは、そんな二人の様子を、遠くのものを眺めるように見つめ、冷たいレモネードを追加で注文した。

 アキはショーコを席に案内し、これまでの経緯を話した。未来の研究所のショーコに例の質問をしたら、ショーコが『わからない』と答え、おかしくなったこと。それを平然と運び出す高遠の様子。不安になって、その場から逃げて、スピードスターの事業所を頼ったが、テツオや未来の自分が複数存在し、気味が悪くなり、またも逃げ出したこと。自宅に戻ろうにも、居住区が穴ぼこだらけになっていて途方に暮れたこと。そんな中で、アッシュと出会い、ノアまで連れてきてもらったこと。アッシュは自分と同じ|異能持ち《ホルダー》で、人の心を読む異能力を持ち、電話を貸してくれた恩人であるということ。
 一連の説明を、ショーコは、深く頷きながら聞いた。その様子はまるで、学校で起こった一日の出来事を話す我が子の話に頷く母親のように、優しさに満ちていた。
 ひとしきり話し終えたアキは、安心しきって、少しぬるくなったミルクティーにスティックシュガーを5本まとめて投入し、飲み始めた。
「それにしても、やけに気が利くと思ったら、心が読めるとはね、アッシュくん」
 ショーコはアッシュが|頼んでいた《・・・・・》レモネードを一口だけ飲み、話しかける。
「お初にお目にかかります。相馬博士。噂は聞いていますよ。それにしても、今回、アキさんを未来へ送ったのは大きな賭け…でもないですね…」
 ショーコの心を覗いたアッシュは、アキが未来へ来て取る行動とその結果起こるであろう出来事の組み合わせを大きく8つ想定し、さらにそのシナリオごとに起き得る小さなノイズのような出来事―すべて組み合わせるならば、実に256パターン―をすべて想定していていたことが読み取れた。
「アキさんが不安になることは想定していたけれど、まさかあんなに泣くとは思ってなかったわ」
 ショーコの言葉を聞いて、アキは照れくさそうに笑う。
「あと、日比谷アッシュ、あなたの存在も想定外よ」
 ショーコは真剣な面持ちでアッシュをまっすぐ見つめる。
「……やだなぁ、相馬博士。そんな|おっかない選択肢《・・・・・・・・》まで用意しないでくださいよ…」
「ショーコさん、アッシュは大丈夫だと思う…。最初は怪しい人だと思ったけど、今こうして私がショーコさんと会えたのは、アッシュのおかげだし…」
「アキさんの素直なところは、とても素敵だと思うわ。ただ、この男は信用してはダメ。フロンティアきっての『詐欺師』なのだから…!」
「……あくまで徹底抗戦の構えですか…」
 アッシュは取り付く島もないと判断したのか、やれやれと肩をすくめて、
「ま、今日のところは退散することにしますよ…。アキ、またどこかで…」
 そう言い残し、三人分の飲み物代をテーブルに置いて店を出ていった。
 アキは、突如として訪れた険悪なムードに、どうしたらいいものか困った表情をしていた。
「ショーコさん…。どういうことですか? アッシュが『詐欺師』だなんて…」
「ごめんなさいね、アキさん…。あなたはこの3年で起こった出来事を知らないんだから当然よね…。あの、日比谷アッシュという男は、今のこの状況を―人類が追いやられている世界を―作った人間の一人なのよ…!」
「え…」
「順を追って話をするわ…。アキさんを未来に送った理由も含めてね」

⑥ 3年後の不気味な日常

 研究室から飛び出し、螺旋階段を駆け上がるアキ。後ろから追いかけてくる気配はないが、『バグったショーコさん』とそれを何事もなく運び出す高遠の様子から、アキは得も言われぬ不気味さを感じ、『本物のショーコ』の言葉に従い、なるべく遠くに逃げることにした。
 螺旋階段を駆け上がる間、地上に出たら、〝世界崩壊後〟の荒廃した世界が広がっていたらどうしようかと少し不安になっていたアキだったが、量子力学研究所を出て目にした世界は3年前とさして変わらない、『いつもの』景色だった。
(よかった。世界は無事だった…)
 なんだか、中二病ポエムのような感想が頭に浮かび、少しおかしかったが、先程見た光景のおかしさに比べれば、まともな感想だと思った。
 そう、世界は無事だった。
 アキは、先程の異常な光景は、研究所の中だけでの話で、きっと二人共、研究のし過ぎで、思考の合理化が行き着くところまで行き着いてしまい、いっそロボットにでもなってしまった方が良いとかなんとか結論づけて、二人で『科学者としての人生を謳歌した』だけの話に違いないと思いたかった。
 そのくらいに外の世界は、いつもの日常を刻んでいた。時刻は夕方過ぎだろうか。夕日が沈みかけていた。
(そうだ、テツ先輩に会いに行こう。テツ先輩ならきっと何とかしてくれる…)
 アキは、混乱しかけた頭をリセットするように、両手で頬を叩いて気合いを入れ直し、スピードスター事業所のある商業区へと駆け出した。

 商業区を走っている間、目に入ってくる光景は3年前と大して変わらなかった。見たことのない店もあったが、元々商業区はテナントの入れ替わりの激しい場所だったし、3年も経てば新しい店があっても何ら不思議ではない。高層ビルに見たことのないアニメの広告が掲示されているのが気になって、あれは一体何のアニメなのだろうかと、ふと足を止めそうになったが、そんなことよりも今は事業所に向かうのが先決だと、アキは先を急いだ。
 スピードスター事業所についた。よかった。ちゃんと残ってる。
 アキは、ほっと安堵のため息をついて、事業所の自動ドアをくぐった。事業所の時計はちょうど定時の17時を指そうとしていた。ちょうど営業終了間際の時間なので、テツオもいるに違いない。
「すみません…。アキです。テツ先輩います…」
 と言いかけたところで、奥のデスクから山下が出てきた。
「あ、アキちゃん。ハハ…。どうしたの? って、あれ、アキちゃん|ひとり《・・・》?」
「あ、山下さん!」
 山下がいたという安心感から、アキは心が軽くなった。そして、3年経っているにも関わらず、私の顔を見るなり、いつもどおりの優しい笑顔で声をかけてくれたことに嬉しくて泣きそうになった。
「…あのう、色々お話したいことがありまして、テツ先輩っていますか?」
「ああ、テツオなら、もうすぐ戻ってくると思うよ。ハハ…」
 そんなやりとりをしていると、事業所の扉が開き、テツオが現れた。3年経っても、大きく変わることはなく、いつものテツオだった。
 テツオはアキを見るなり、おかえりと言わんばかりのにこやかな笑みでアキを見つめ…。
「テツ先輩…!」
 アキはテツオを見るなり、自慢の加速力でテツオの胸に一直線に飛び込み、抱きついた。
「うっ…! ぐぉ…。おいおい。どうした? アキ…。そんな勢いで飛び込まれたら、いくら頑丈な、この俺でも…」
「テツ先輩…! テツ先輩…! よかった…。会いたかった…」
 未来に来て早々、〝おかしくなった〟ショーコと高遠の姿を見て感じた不安を必死に押し殺し、事業所の二人までおかしくなってしまっていたらどうしようという不安もあって、不安まみれのアキであったが、山下と、そして何より実の兄のように慕うテツオが、変わらない姿で自分を迎えてくれたことに対する安心感から、少し涙目になり、テツオの胸に顔を埋めた。
「おいおい、アキ。リョウも見てるんだから、こういうことは時と場所をわきまえてだな…」
 と、いつものように茶化してくるテツオの態度が、今のアキにはとても愛おしく感じられた。そんな二人の姿を山下はニコニコと眺めていた。

「落ち着いたか?」
 涙目になっているアキの頭をそっと撫でるテツオ。
 テツオの優しい手の温かさで、冷静さを取り戻したアキは、テツオに抱きついているという事実に気恥ずかしさを覚え、テツオからぱっと飛び退いて、ポツリと一言。
「テツ先輩…。ありがとう…」
「このくらいお安い御用よ。胸くらいいくらでも貸すぜ。…で、何かあったのか?」
 アキはこれまでの事情を説明した。3年前のあの日、量子力学研究所の相馬ショーコの元へ行き、未来へやってきたこと。未来の相馬ショーコは様子がおかしく、慌てて逃げ出してきたこと。相馬ショーコが普通じゃなくなった今、過去に戻る方法もなく、途方に暮れていること。
 アキは、事の顛末を改めて自分の口で語ると、あまりにも現実離れしていて、二人がちゃんと聞き入れてくれるか少し心配になったが、テツオと山下は、そんな心配が吹き飛ぶくらいに、アキの話に真剣に耳を傾けた。話を聞いた二人は、満面の笑みで、アキを見つめ、
「そんなに心配すんな。一緒に過去に戻る方法を探してやるよ」
「過去に戻る方法が見つかるまで、ここで働いてもいいよね…。ハハ…」
 と、優しい言葉をかけた。この二人がいてくれるなら、何とかなりそうだとアキは安心した…。

「ハハ…。ところで、アキちゃん、もう一度聞くけど、|ひとり《・・・》なの?」
 ほっとしているアキに、山下が変なことを聞いてきた。
「え? ひとりってどういう…」
 と、返事をするタイミングで事業所の扉が開いた。
 そこには、もう一人のテツオがいた。
(………!)
「おお、アキじゃないか。どうしたんだ? そんな顔して」
 もう一人のテツオは、アキの強張った表情を見て声をかけた。
 安堵の表情から一転、徐々に表情が雲っていくアキ。
「あ…、あの…これって…」
「ハハ…。テツオだよ。何かおかしいかい?」
 アキは|隣にいる方の《・・・・・・》テツオに視線を移す。
「おう! 遅かったな。ご苦労さん。テツオ」
(………)
「あの、テツ先輩…?」
「「ん? どうしたんだ? アキ。そんな顔して。俺が二人いたら変か?」」
 二人のテツオが同時に同じ言葉を発する。同じ声色、声の高さで奇妙なハーモニーを奏でている。
「あ…、ちょっと、私、外の空気を吸ってきますね…」
 アキは、またも奇妙な現実を突きつけられ、少し冷静になりたいという思いと、この場から離れた方が良さそうだという心の声から、外へ出ようとする。
 よろよろと入口へ向かうアキに対して、
「ハハ…。大丈夫かい? アキちゃん…」
「「お、大丈夫か? 一緒についてってやろうか?」」
 山下とテツオとテツオが声をかける。
 アキは、後ろから聞こえてくる|3人《・・》の声を無視して、事業所の外へ出た。

 頭が混乱し過ぎて、整理が出来ない。なんでテツ先輩が二人もいるんだろう。というか、二人いるという事実を何も疑問に思っていないのはなぜなんだろう。これって、ショーコさんと同じように、テツ先輩も『何者か』になっているんじゃないだろうか…。山下さんは…。頭の中でいろいろな不安が湧き出てきて、目眩がしてきた。
 一回落ち着こう。そうだ深呼吸しよう。そう思って、事業所前の通りを見ると、前から女の子の集団が歩いてくる。どこかで見覚えがある姿…って。
 『アレ』は、私だ。未来の私だ。そうだ、未来の私に話をすれば、この不気味な状況の正体も…。
 よく見ると、未来の私は|5人《・・》いた。
 先頭を歩く女の子が未来の私だと思いきや、隣に並んでいる女の子達も全く同じ姿形をしている。
 配達を終えてリラックスしているのだろうか、ゆっくりこちらへ向かってくる。5人で仲良く談笑しながら並んでこちらへ向かってくる。どうやらこちらの様子には気づいてないらしい。
(いやいやいや…、なにこれ…。無理無理無理無理…)
 状況を整理するなんて暇はなかった。ただただ気持ち悪くなって、気がついたら、アキはその場から逃げ出していた。

 事業所で得た束の間の安心感を叩き潰しにくるような事実に、リアルに吐き気を催して、アキは、居住区の近くにある公園の水飲み場で口を濯いでいた。テツオと競走する時にいつもゴールにしていた例の公園だ。
「はぁ…、はぁ…。ふぅ…」
 水の冷たさで気持ち悪さは和らいだが、状況はさっきと変わらないどころか、さらに悪くなってしまった。未来のショーコは、もはやショーコではなかったし、スピードスター事業所も同じ人間が複数いる『大所帯』になっていたりと、頼るべきものがなくなってしまった。
(あ…)
 せっかく居住区の近くにいるんだ。自宅に戻ろう。お父さんとお母さんに会いに…。あ、でも、お父さんも、お母さんも普通じゃないかもしれない…。だとしたら…。
 いや、いいや。とりあえず部屋のベッドで少し横になろう。未来にきてから、色々なことがいっぺんに起きて、思考の整理が追いつかない。寝てスッキリすれば何かいいアイデアも浮かぶかもしれない。
 そんな一縷の望みにかけて、アキは自宅へと向かったが…。
 ――自宅は…なかった。
 別の人の家になっているとか、違う建物が建っているとかそういう次元の話ではなく、物理的になくなっていた。自宅のあった場所には、巨大なクレーターが出来ていた。アキの自宅だけではない。隣の家も、向かいの家も、テツオの家も、どこもかしこも本来家があった場所はクレーターになっていて、居住区一体穴ぼこだらけで、上空から眺めたら〝蓮コラ〟みたいで、さぞ気持ち悪いだろう光景に様変わりしていた。
(…どういうこと…なの…)
 アキは茫然自失し、ふらふらと、元いた公園のベンチにへたり込んでいた。
「はは…。ははは…。なんで未来になんか来ちゃったんだろう…私」
 突きつけられた絶望的な状況に、軽々しく未来へ行くなんて選択をしてしまったことに対して後悔の念が浮かび、泣きそうになる。
「はぁ…。ショーコさんの研究を手伝うなんて|約束《・・》しなければよかった…」

(ん…? |約束《・・》……?)
 ふと、未来へ行く前のショーコの言葉が思い出される。
―詳細は、未来から戻ってきたら必ず説明するわ。必ず…!―
 ショーコさんは、頭の良い人だ。単なる思いつきや、遊びで、私を未来へ行かせるとは考えにくい。何か意味があるはずだ。
(うーん。頭がまわらない。氷砂糖食べよ…)
 未来にきて大して|加速して《はしって》はなかったが、今回ばかりは、頭が純粋に糖分を欲しがっている感覚になり、氷砂糖を取り出そうとパーカーのポケットに手をいれる。
 すると、氷砂糖の入っている小瓶とは違う感触が右手に伝わる。
(ん…? なにこれ…紙…?)
 瓶ごと一緒にポケットから取り出す。出てきたのは、アキが未来へ行くために鎮静剤で眠っていた時に、ショーコがこっそり忍ばせたメモ書きだった。メモ書きには、こう書かれていた。
 『相馬ショーコ(本物)→TEL:09036……』
(電話番号だ…!)
 にしても、『相馬ショーコ(本物)』て。書き方が胡散臭いにも程がある。まあ、今はそれよりも電話だ。アキは氷砂糖とメモ書きが入っていたのとは逆の左のポケットから携帯を取り出すが…、
 携帯電話は電源が切れていた。
「あーーーもう! さっきから何なの!」
 希望を見せられては、潰される。そんなことの繰り返しに、絶望よりも、だんだん腹が立ってきたアキは、一人公園で携帯電話片手にプンスカと地団駄を踏む。
 そんなアキの元へ一人の青年が声をかけてきた。
「あの…、良かったら僕の携帯使います?」
 いきなり声を掛けられて、アキはビクッとした。
「え? 誰?」
 青年はキレイな銀髪の癖っ毛、ポロシャツにハーフパンツと散歩中かのようなリラックスした格好をしていた。身長はアキよりも少し低い。
 先程までの出来事で、未来の人間は信用ならないと、緊張した面持ちで距離を取ろうとするアキ。その様子を見て、先手を制すように、青年は返す。
「あ、怪しいものじゃないです。って言うと余計怪しいかな…。ちゃんと『普通の』人間なんで、安心して。僕、日比谷アッシュって言います。良かったら僕の携帯使ってください。必要なんでしょ?」

⑤ 未来で見たもの

 …ッドン!…ッドン!
 ものすごい音が聞こえて、何事かと目を覚ましたアキは、すぐにその音が自分自身の心臓の鼓動の音だと言うことに気づいた。
 と同時に、体中の血液が意思を持つ生き物のであるかのように全身を駆け巡る感覚に陥る。
「……あ…」
 全身を虫が這い回るようなゾワゾワする感覚に気色悪くなって、ベッドから飛び跳ねた。
「いやっ…!」
 すると、今度は、這い回っていた『虫』が後頭部のあたりに集まってきて、今まで感じたことのない欲求が押し寄せてくる。
(|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》|加速したい《はしりたい》)
 加速欲求はどんどん強くなり、頭がおかしくなりそうになる。
「…しょ、ショーコさん…。わ…たし……もう…」
「高遠くん! 準備はできてるわね!」
 ショーコは、時空転送装置を観察するためのモニター前にスタンバイしている高遠に最終確認を取ると、アキをトンネルの前に引っ張っていく。
 全身をわなわなと武者震いさせて、内股でトンネルの前に立つアキの両肩をそっと掴んで、ショーコは耳元で囁いた。
「さ、思う存分、|加速しなさい《ぶちまけなさい》」
 その言葉を合図に、アキの体はビクンと跳ね、一瞬全身から力が抜けたかのようにうなだれると、ものすごい勢いで前方のトンネル内へ駆け出した。
 あまりの勢いにショーコは後方に弾き飛ばされて尻もちをつく。
 アキの体は、前傾姿勢のまま、どんどん加速する。
「…! 想像以上ね…」
 そうつぶやいて、ショーコが起き上がる頃には、アキの後ろ姿は、豆粒のように小さくなっていた。
「高遠くん! どう?」
「すごいです。どんどん加速していきます。時速130、150、180、240…!」
 初速の時点で、自己ベストのキロメートルアベレージ35秒(=時速102.85キロメートル)をあっさりと更新したが、そんなこと、お構いなしにどんどん加速していくアキ。
「300、380、420…! まだ伸びます! 500、610…! 5キロメートル通過時点でマッハ0.5突破!」
「このあたりが限界ね…。予定通り、転送を開始しましょう」
「はい!」
 高遠がモニター前にある電子パネルのスイッチを押すと、赤みがかったトンネルの照明が淡く黄色い光に変わり、アキの体を包み込む。
 量子情報の解析中も、アキはどんどん加速する。
「660、720…! 解析完了! 相馬博士!」
「いざ、未来へいってらっしゃい! 頼んだわよ…。アキさん…!」
 高遠の合図で、ショーコは、転送スイッチを押す。アキの体は一瞬眩しく光ると、モニターから完全に消えた。
 転送直前まで加速したアキの最高時速は800キロメートルを超えていた。

 一瞬暗転した視界が開けると、トンネル内は青白く光っていた。
 さきほどまで、音速に迫る勢いで加速していたが、今は、いつもの配達で加速しているくらいの速度にまで落ちていた。
 そして、ゴールが見えたと思ったら、そこは、時空転送装置――トンネルの入口であった。
 どうやら、転送時に方向が逆転して、トンネルを往復した形になったらしい。
 ついさっきまで頭の中を支配していた、『加速欲求』は今はなく、糖分が足りない感覚もなく、意識もはっきりしている。コンディションとしては、良好だ。
 転送装置の入口に立つと、モニターの前に相馬ショーコが立っていた。いつもの仁王立ちで。
 そして、振り返って、ビシっと指をさして一言。
「ようこそ! 未来へ。|天道さん《・・・・》」
「あ…、その登場の仕方、3年経っても変わらないんですね…」
 どうやら、転送には成功した?らしい。
「あなたが、過去から来ることはわかっていたわ。この天才! |相馬ショーコ《・・・・・・》が、過去の実験を忘れることはないわ!」
「あ、今、実験って言いました…?」
「ええ、言ったわ。あれは、あなたを未来へ送る偉大なる|実験《・・》だった。何か問題でも?」
(………ん?)
「いえ、問題はないですけど…。ちゃんと未来に来ることができましたし」
「そう。これでよかったのよ。未来へ来た感想はどう?」
「んーと、なんか、研究所から研究所へ転送されただけなので、あんまり実感湧かないですね…。本当に未来なんですか…? ここ?」
「この電波時計を見なさいな。ほら」
 時計は、2020年5月5日を示していた。転送〝実験〟は2017年5月5日だったので、たしかに時計上は未来へ来てるらしいことがわかった。
「んー、そっかぁ…。でも、なんかあんまり変わんないんですね。ショーコさんも、研究所も。あ、高遠さんもいるんですか?」
「高遠は、今、|奥の部屋だ《・・・・・》」
(…………?)
 なんだか、さっきからショーコさんと話をしていて違和感を感じる。
 まず、登場時の私の呼び方が変だった。3年前のショーコさんは、私のことを『アキさん』とか『天道アキさん』と、名前を含んだ呼び方をしていたのに、『天道さん』と名字呼びだった。
 次に、名前を噛まなかったこと。ショーコさんは、サ行が連続すると決まって噛み倒していたのに、気持ち悪いくらいスラスラと。あと、私の転送のことを『実験だ』と言い放ったのもおかしい。あの流れは、『言ってないわ』と言い放ってしらばっくれるショーコさんを期待した前振りみたいな感じで聞いたのに。
 そして、今の高遠さんへの反応。「高遠くーん!」って呼ぶと思いきや、「奥の部屋」とだけ。しかも、「部屋|だ《・》」って断定する言い方なんてショーコさんらしくない。
「あのぅ…。ちょっとショーコさんに質問があるんですけど、いいですか?」
 違和感を覚えたアキは、過去のショーコからの課題を思い出し、例の『質問』をしてみることにした。
「なに? 何でも聞きなさい。この天才|相馬ショーコ《・・・・・・》に答えられないものはないわ」
(………また噛まなかった…)
『箱の中身は生きてますか?』
 アキは、過去のショーコに言われた通りに質問してみた。
「…………」
 咄嗟の質問に何かを考えるように一瞬フリーズして、
「え…、あ…。んー、ああ…。箱ね…。あの3年前の…!」
 と、続けるショーコ。
「ええ。そうです。箱の中身は生きてますか?」
 こんな質問に言い淀むなんてショーコらしくないと、アキは追撃するように同じ質問を繰り返した。
「中身を見ていないから、|わからない《・・・・》わ」
(…………!!)
 過去のショーコの言葉を思い出すアキ。
 ――もし、未来の私が『|わからない《・・・・・》』と答えたら、そいつは私じゃないということだけ覚えておいて――
(今、たしかに『|わからない《・・・・・》』と言った。この人は、ショーコさんじゃない。一体何者なの?)
「天道さん、どうしたの? 箱の中身が気になるの? なら、開けて確認してみましょうか」
 アキの様子を見て慌てて箱の元へ向かうショーコ。
 箱は3年前の、あの日あの時のまま、研究所の入り口付近の床に放置されていた。自分で置いたからよく覚えている。
 ショーコの姿をした『ショーコではない何者か』は何かに急かされるように、箱を開けた。
 そして、再び、今度は先程よりも長めにフリーズした。
 アキは恐る恐る近づいて、『ショーコではない何者か』の背後から、箱の中身を覗いた。
 箱の中には、『赤ちゃんの人形』が入っていた。そう、生き物ですらなかったのだ。
 そもそも、配達の時点で生き物だとしたら、事業所で山下から取扱の説明があっただろうし、配達した時に、『その辺に置いといて』なんて言い放ち、3年もの間、一切手をつけず放置してるなんておかしい。ショーコさんとはまだ短い付き合いだが、そういう不合理なことをスルーできるような人じゃないことは知っている。あの箱は、何か理由があって、|あえてそのまま《・・・・・・・》にしておいたんだ。
 にしても、人形なんて…。
 アキが思考を巡らせていると、
「天道さん、箱の中身は、そもそも生き物ではなかった。どうしてそんなことを聞いたのか、この天才相馬ショーコには、わからな…鏤帥€カ繧ァ・コΤ4・コムア㊦ッ・・賢荳・アN・ア・昶 キ・H・сアN・・ア*・cアス・・€ア盍N・・イH・オ盂「・ア盍)・若アサ・潟イ)・潟イ'・蚊アォ・帥イ-・・€ア盂H・ウ盂オ・ウ痼アΤサ・潟イ)・コΤG・ケ盂ォ・ゃアス・・アゥ・アΤ2・・イ%・潟アウ・ゃアJ・・イI・・ア「・エΤォ・オ盂・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≪ア・≒€・€・€・€・€・€・€・€キ」
『何者か』は、言葉にならない意味不明な『音』を発しながら、虚ろな目で、しかし、ものすごい眼力でこちらを見つめて詰め寄ってきた。
 これはヤバイ…! アキは、さっと身を引いて『何者か』の伸ばしてきた手を躱し、距離をとった。
 こちらに迫ってくる『何者か』は、幸い動きが速いわけではない。一気に避けて、入口を駆け上がれば、逃げられる…!
 そう決意し、息を吸い込んだところで、入口とは反対方向にある部屋の扉が開いた。
「あらあら、相馬先生バグっちゃったか。仕方ないなぁ、もう」
 奥から出てきたのは、高遠であった。手にはなにやら小さなリモコンのようなものを持っていて、『何者か』に向けて、スイッチを押した。
 すると、『何者か』は糸が切れた操り人形のように、だらんと四肢を投げ出し、その場に突っ伏した。
 一連の様子を見たアキは、緊張と困惑が混じり合った表情で、高遠を見つめる。
「あ、天道さん。安心して、相馬先生はバグっちゃっただけだから。新しいのと交換すれば大丈夫…!」
 そう言い放って、『ショーコだったもの』を肩から背負って、奥の部屋へ運ぶ高遠。
 アキは転送前の本当のショーコの言葉を思い出す。
 ――未来で起こることで、何かおかしいと感じたら、すぐにその場から逃げること。いいわね――
 高遠が奥の部屋へ消えたのを見ると、アキは入口に向かって一気に駆け出し、研究所から逃げ出した。

④ 時空転送装置

「ここを、|加速する《はしる》…」
 アキは、『時空転送装置』と紹介されたそのトンネルを前に、ポツリと呟いた。
 トンネルは、10キロメートル先にある終点が見渡せそうなくらい、ただただ真っ直ぐに伸びていた。幅や高さは、鉄道車両を思わせる広さで、内部には暖色系の照明が均等間隔に設置され、全体的に赤みがかっていた。
「そう! 思う存分駆け抜けていいわ、全速力で。いえ、むしろ未来に行くためには、アキさんの限界を超えたスピードで駆け抜けてほしいの」
「限界を超えたスピード……」
(思いっきり|加速して《はしって》いいんだ…)
 運び屋の仕事をするようになってから、アキは日々街中を走り回っていた。
 が、配達のときも、テツオとの競走のときも、本当の意味での全速力を出したことはなかった。
 というのも、運び屋は、『許可証』と書かれた、その腕章が示すとおり、区から街中を走る『許可』を得ている立場であり、道行く人や建物に衝突しないよう細心の注意を払う必要があったからだ。
 連日キロメートルアベレージの自己ベストを更新したと喜ぶアキであったが、それは、事故を起こさないように注意を払った上での全速力――いわば〝街中を走るためにセーブした全速力〟であった。
 それこそ、アキが本当の意味での全速力で|加速した《はしった》のは、3年前の〝困惑のスポーツテスト事件〟が最初で最後であった。
「あなたの異能力《ちから》って、『体内に取り込んだ糖分を速さに変換する』異能力《ちから》よね?」
「…えっ、あ…はい。そうですけど…って、なんで知ってるんですか?」
「ああ、ごめんなさいね。3年前の例の事件以来、あなたのことは研究対象として…んっん、…じゃなかった、将来の研究パートナーとして、調べさせてもらっていたの」
「例の事件って…、スポーツテストのことですか…。何でも知ってるんですね、ショーコさんは…。というか、今、研究対象って言いませんでした?」
「言ってないわ」
「いや…、言いましたよね?」
「言ってないわ」
 〝本当に言ってないです〟風の真顔で二度も否定するショーコを、ジト目で見つめるアキ。
 ショーコはアキの視線をフフッと柔らかな表情で躱し、話を続ける。
「加速に必要な糖分は、こちらで用意してあるわ。高遠くーん! 天道さんに例のアレ、持ってきてー!」
「はいはい。わかってますよ…。というか、座布団持ってきてーみたいに言わないでください…」
 高遠は軽くため息をつくと、トンネルとは反対側――ちょうどテレポ実験の転送先になっていたカプセルの奥の部屋から、キャスター付きの簡易ベッドをアキの前に運んできた。
 ベッドには、病院でよく見る点滴剤の袋と小さな薬箱のようなものが備え付けられている。
「さ、アキさん、このベッドに横になって」
「あの…ショーコさん、まさか糖分って、点滴で……」
「そうよ。|経口摂取《・・・・》では吸収効率が悪いもの。ささ、横になって」
 アキは若干の不安を感じていたが、協力すると言った手前、断りづらいというのと、自分の限界を超えたらどうなるのかということへの興味から、ショーコに促されるまま、ベッドに|仰向け《・・・》になった。
(うーん…点滴久々だなぁ。チクッとするの嫌だな…)
「アキさん、|向き《・・》が違うわ。|仰向け《・・・》じゃなくて、|うつ伏せ《・・・・》になって」
「え、点滴を打つなら、|仰向け《・・・》でいいんじゃないですか?」
「ええ、普通はそうなんだけど、点滴を打つ前に、ちょっとした|準備《・・》が必要なの。この点滴剤には高濃度のブドウ糖液が入っているわ。おそらく投与を始めてすぐに、強烈な加速衝動にかられてしまうと思うの。今まで甘いものを食べた時に感じたものの比じゃないレベルのキョーレツなやつよ。そうなると、投与が完了するまで、とっても辛いでしょうから…」
 そう話しながらショーコは、点滴剤と一緒に置かれていたケースから小指の先ほどの大きさのクスリを取り出し、アキに見せた。
「加速衝動を抑えるクスリよ。さ、うつ伏せになって」
「まさか、ショーコさん…、それって…」
「ええ、座薬よ」
「………っ! 座薬…ですか…?」
 まさかの座薬の登場に驚きを隠せないアキに対して、何か問題でも?と涼しい表情のショーコ。
「ほら、早くうつ伏せになって、お尻出して。あ、高遠くん! わかってると思うけど、あなたは奥に引っ込んでなさいね。ここからは私とアキさんの『女の子の時間』だから。さ、アキさんお尻出して!」
 高遠は言われなくてもわかってますよと言わんばかりに深く頷き、ベッドが置いてあった奥の部屋へと戻る。
 高遠が奥の部屋へ消えたのを確認すると、ショーコはアキの体をひっくり返し、スカートの中に手を入れ、パンツを下ろし始める。
「ちょ、ショーコさん、待ってください! やめて! まだ心の準備が…」
「大丈夫よ、痛くしないから。ほら、お尻もっと突き出して!」
 ショーコは医療用の薄手の手袋をはめて、人差し指で潤滑油のワセリンをアキの『穴』に塗る。
「ひゃっん…」
 普段触れられたことのない部分に触れられて、思わず変な声が出てしまい、アキは赤面する。そんなアキの様子を楽しむかのように、ショーコはニコニコと笑いながら、座薬を挿入した。
「あ…ちょっ…本当待って…。いやーーーー!」

 高遠がモニタールームへ戻ると、真っ赤な顔を両手で隠して、半泣き状態でベッドの上にへたり込む、|事後《・・》のアキの姿があった。
「……シクシク…。汚された…」
「座薬ぐらいで大げさね、アキさん。|あっちの穴《・・・・・》には手をつけてないわよ。なんなら、|あっちの穴《・・・・・》にも指を入れた…」
「相馬先生…! これ以上、天道さんに追い打ちかけないでください! というか、|あっちの穴《・・・・・》って連呼しないでくださいよ…。まだ16なんですよ、天道さんは…」
 珍しく強めの口調で介入してくる高遠を見て、ショーコは、それもそうねと、アキをからかうのをやめ、本題を切り出す。
「さて、準備が整ったわけだけど、アキさん、大丈夫?」
「……ええ、まあ。もうここまでやったら、とことん付き合いますよ……」
「今から点滴の投与を始めるわ。投与が完了するまでに20分くらいかかるから、その間に、この後の流れと、未来へ行ってもらった後の話をするわ」
「はい…」
 ショーコと高遠は、病院の先生と看護師さながらの手際の良さで、テキパキと点滴の準備を始めた。
 今度は|仰向け《・・・》にベッドに横たわったアキの腕にゴムチューブを巻き、血管を浮かび上がらせ、ササっとアルコール消毒をし、針をプスっと突き刺し、ブドウ糖液の流れる量を調整した。
「さ、まずは、この後の流れを説明するわ。点滴投与が完了したら、そのまま時空転送|しょうち《・・・・》の中に入ってもらうわ。私と高遠くんとで、装置のスイッチを入れて、アキさんの量子情報をすぐに解析できる状態でスタンバイするから、しばらく――おそらく数分だと思うけれど、座薬の効果が切れるのを待ってちょうだい。座薬の鎮静効果で、眠くなるかもしれないけど、その時は眠ってもらって構わないわ。座薬の効果が切れると、アキさん、あなたは加速したくて、体が疼いて、いてもたってもいられなくなるわ。そうなったら、この時空転|しょう《・・・》装置の中を全速力で駆け抜けてちょうだい。本能の赴くままに、ね」
「あ、その全速力っていうのなんですけど、以前全速力で加速した時に、倒れちゃったことがあるんですけど、大丈夫ですかね…?」
「大丈夫よ、安心して。アキさんの過去のバイタルデータから、今のアキさんが出せるであろう限界まで加速した場合に必要な血糖量を算出した結果、通常の15倍の濃度のブドウ糖を500ミリリットル投与すればいいことがわかっているわ。ちなみに、今投与しているのは、通常の30倍の濃度だから、加速中に糖分切れで倒れることはないわ」
「わかりました…」
「アキさんが加速を始めたら、その様子を私と高遠くんとで、このモニタールームから観察して、最高速度に達した時に、アキさんの量子情報の読み取りを開始して、『未来へのテレポ』を始めるわ」
「そういえば、今更なんですけど、未来ってどのくらい先の未来へ行くんですか、私?」
「良い質問ね。そうしたら、このまま、未来へ行ってやってもらいたいことを伝えるわ。アキさんには、3年後の未来に行ってもらうわ。そして、そこで未来の私、『相馬ショーコ』に、『ある質問』をして来てほしいの」
「質問…ですか?」

 ――『箱の中身は生きてますか』
 ショーコから、頼まれた質問とは、アキが午前中にこの研究所に配達した箱の中身の生死を、未来のショーコに問うて欲しいということであった。
 というか、箱の中身って生き物だったんだと知り、少し驚く。
「えっと…、それを聞いて、どうするんですか?」
 アキは、ショーコに問う。
 高濃度のブドウ糖の点滴の効果で、アキの体は徐々に火照り、頭がぼーっとし始めた。
「今は、詳しく話すことはできないのだけれど、もし、未来の私が『|わからない《・・・・・》』と答えたら、そいつは|私じゃない何者か《・・・・・・・・》だということだけ覚えておいて。詳細は、未来から戻ってきたら必ず説明するわ。必ず…!」
 何故か、語気を強めて、アキを励ますように手をにぎるショーコ。
「……。どうしたんですか? ショーコさん……」
「………なんでもないわ。それと、アキさん。未来で起こることで、何かおかしいと感じたら、すぐにその場から逃げること。いいわね」
 |逃げる《・・・》なんて物騒なことを言い出すショーコであったが、座薬の鎮静効果か、少し眠くなってきたアキは、昔から逃げ足には自信があるし平気ね、なんて呑気なことを考えていた。
 点滴が完了する頃には、座薬の鎮静効果がすっかり効いて、アキはぐっすり眠りについた。
 ショーコは、ベッドで眠るアキのパーカーのポケットに小さなメモ書きを忍ばせた。

③ 天才 相馬ショーコ

 突然の告白に何が何だか分からず、状況を掴めずにいるアキは、きょとんとした表情で、目をぱちくりさせている。
「ああ、そうだったわ! 自己紹介がまだだったわね。私はフロンティア随一の量子力学研究者にして、稀代の天才、いえ、ある意味秀才…にして天才科学者の!」
『天才』という単語が二度も使われてる件はツッコミ待ちなのだろうか。
「シょぅまショーキョよ!」
 大事なとこで噛み倒す『天才』。
「相馬ショーコよ!」
 名前を噛んだという事実をなかったことにするかのように、真顔で二度目の自己紹介をする|相馬ショーコ《そうましょうこ》。
「は、はぁ…。って何であたしの名前知ってるんです?」
「ほほほ。この『フロンティア随一の量子力学研究者にして、稀代の天才、いえ、ある意味秀才…にして天才科学者』の! この私に知らないことはないわ!」
(なんだか面倒くさそうな人だなあ…)
「あ、えーと…、受取のサインをもらっていいですか?」
 さっさと受取のサインをもらって帰ろうとするアキに対して、
「待って待って、お願い、待って。あなたのことは、よーく知ってるの。3年前から目をつけてい…って、言い方が良くないわね。3年前から仲良くなりたいなーと思っていまして、いえ、仲良くというより、お知り合いになれたらなー…じゃなくて!」
 なんだか煮え切らない様子のショーコをジト目で見つめるアキ。
「ええい、端的に言うわ。あなた、未来に興味ない?」
「…?…未来ですか?」
「そう。未来。あなた、|異能力持ち《ホルダー》でしょ? あ、この言い方は失礼ね。あなた、特殊な〝才能〟をお持ちでしょう? あなたのその〝才能〟と、この大天才|シょぅまソうこ《・・・・・・・》の頭脳から生まれた、『時空転|しょぅしょうち《・・・・・・・》』…んっん! 『時空|転送装置《・・・・》』を使えば未来に行けるのよ!」
 またも天才とやらは自分の名前を噛み倒したが、そんなことは歯牙にもかけず、本題の『時空転送装置』とやらは、さすがに噛み噛みで話を進めては、伝わらないと思ったのか、きちんと言い直した。
「『時空|転送装置《・・・・》』は、量子テレポーテーションの仕組みを応用したものなのよ。量子テレポーテーションっていうのは、転送する物質の量子を測定して、その構成情報を抽出し、別の場所に配置された対になっている量子情報との差異を比較して、別の場所で物質を再構成するもので、これによってオリジナルと同じ物質が別の場所に転送されるという技術よ。実用化はされてはいないけど、実験ですでに何度も転送を成功させているわ。そして、物質が『加速する』状態で転送を行うと、時間すらも超越することがわかったのよ! そこで…!」
「えっと…、ちょっと待ってください。全然話が見えないんですけど、要するに、私の|異能力《ちから》と、その『時空転送…装置?』があれば、未来に行くことができるってことですか?」
「そうそう! 物分りがいいわね。ますます好きになったわ…、天道アキさん。どう、協力してくれる? くれるわよね?」
 ショーコは、目をキラキラと輝かせてアキに詰め寄る。
「…わかりました。とりあえず今、お仕事中なので、夕方からでも大丈夫ですか?」
「あ、そうね。そうよね。分かったわ。それで大丈夫。仕事が終わったら連絡ちょうだい」
 そう言うと、ショーコは白衣のポケットから名刺を取り出しアキに手渡した。
 名刺には「天才 相馬ショーコ」の文字と連絡先の電話番号が記されていた。
(職業欄、天才て…)
 心の中でツッコミを入れながら、夕方再び来ることを約束し、アキは研究所を後にした。
 ショーコのテンションに押し切られた、というのもあるが、アキ自身、未来へ行くなんていう、アニメ・マンガさながらのトンデモSF展開は、興味がないわけではなかったので、というより、内心すごく興味があったので、話だけでも聞いてみようと、協力を約束したのだった。

 アキは午後の配達を終え、定時で上がり、再び量子力学研究所――相馬ショーコの元へと向かった。
 余計な心配をかけさせたくないと思い、テツオと山下には行き先を告げず、こっそりと事業所を出た。
 研究所の中へ入ると、ショーコは、またも仁王立ちのポーズから振り返って、こちらをビシっと指さし、
「ようこそ! 我が研究所へ! 来てくれて嬉しわ、天道アキさん!」
 毎度毎度このお出迎えは儀式か何かなのだろうか。
「どうも…」
 普段はテンション高めのアキだったが、自分よりもさらにテンションの高い人間を前にすると、どうにも萎縮してしまう。
「早速、本題に入るわね。まずは、色々と不安もあると思うから、サクッと『テレポ』っちゃいましょう!」
「テレポっちゃう…?」
「今朝話した通り、時空転しょ…転送装置は、量子テレポーテーションの応用だから、まずは量子テレポってのを体験してみましょうということよ!」
「いいですけど、大丈夫なんですか? 転送に失敗してゲル状になったりしないですよね…?」
「ふっふっふ。そんなこともあろうかと、テスターを用意してるわよ。いでよ! 高遠くーん!」
 ショーコの掛け声と同時に、奥の方から、白衣を着た気弱そうな男性が出てきた。
「もう、ショーコさん…。人を悪魔召喚みたいに呼ぶのやめてくださいよ…」
 高遠《たかとう》と呼ばれたその男は、アキに向かって軽く会釈すると、気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。
「アキさん、あなたの不安を取り除くために、まずは今この場で、私の助手の高遠くんをテレポさせるわ。はい、高遠くん。さっさと入った入ったー」
 ショーコは、人ひとりが入れるくらいのカプセルの中に、トントントンとテンポよく高遠を押し込む。
「ちょっ、ショーコさん、そんなに強引にしなくても、すぐに入り…」
 などと、高遠が何かを話してる途中だったが、
「はい、スイッチオン! ポチッとな」
 と高遠がカプセルに入るとすぐに転送ボタンを押すショーコ。
 カプセルの前に設置された電子パネルに「量子情報解析中」の文字が流れ、カプセル内では、淡く黄色い光が高遠の体の周りを包みこむ。
 解析は数秒で完了し、電子パネルには「情報転送準備完了」の文字が表示され、次の瞬間、カプセル内の高遠は一瞬にして消えてしまった。
 アキは、目の前で人が消えてしまったという事実に、驚きと興奮がないまぜの状態で、ショーコに尋ねる。
「あ! あの! 高遠さんはどこへ?」
「んっふっふー、あっちよ!」
 ショーコはアキの後方に位置するもう一つのカプセルをビシっと指さした。
 カプセルを見遣ると、青白い光とともに高遠が姿を現す。
「…ますから! って、あれ? もう転送されちゃってたのか…」
 強引な博士にこき使われることに慣れてるのか、高遠はやれやれといった表情でカプセルから出てきた。
「これが量子テレポーテーションよ! どう? アキさん?」
「………すごいです! こんなことができるなんてアニメやマンガの世界だけだと思ってました!」
「よろしい。至って素直な反応、素敵だわ。今見てもらったように、量子テレポの研究自体は、すでに実用化に耐えうる段階まで来ているのだけれど、倫理観がどうのこうのって、文系学者の連中がうるさくって、実用化されるには至ってないのよ」
 やれやれとため息をつき、肩をすくめるショーコ。
「…量子情報を読み取って、別の場所で再構成するという仕組みだから、厳密には真の意味でのオリジナルは消失してしまってるんですよ…。言ってしまえば、コピー&ペーストのようなもので、倫理上の問題があるようです…。ってそんなこと言い出したら、僕なんて、相馬博士に何回転送させられたか…。オリジナルの欠片も残ってない〝コピペ人間〟ですよ…」
 虚ろな目で斜め下を見つめ、自嘲気味に、そう付け加える高遠。
「ま、そんな感じで、アキさんもテレポってみる?」
「はい! やってみたいです!」
 二つ返事でOKするアキに対して、ショーコはニコッと微笑むと、量子テレポのカプセルを開いて、ホテルマンのような紳士的な振る舞いで、アキを中へと案内した。自分のときと扱いが全然違うことに高遠は苦笑いを浮かべ、やや不安そうな表情を浮かべるアキに軽く手を振った。
 カプセルに入った瞬間、完全密閉空間で音が遮断され少し不安になったが、淡い黄色い光が体を包むと、落ち着いた気分になり、そのままフワフワした状態に心地よさを感じていると、一瞬だけ視界が暗転し、次の瞬間には、青白い光の眩しさで目を覚ましたような感覚に陥る。
 アキは自分の入った方|ではない《・・・・》カプセルから出てきた。意識もはっきりしている。
「どう? 初テレポの『お味』は?」
「…はい。最初は不安な感じだったんですけど、光に包まれてフワフワした気分になって、一瞬目の前が暗くなって、目を開いたら瞬間移動してて…。とにかく新鮮でした!」
「いい感想ね。その調子なら大丈夫そうね。さて、『テレポ処女』を捨てて貰ったところで、本題に入りましょうか」
「相馬博士、『テレポ処女』って…」
 高遠のツッコミの意味することがピンと来ていない表情のアキは首をかしげ、ショーコの話に耳を傾ける。
「時空転送は、量子テレポの応用で、高速で移動する物質の量子情報を解析したらどうなるのかという疑問から生まれたわ。きっかけは、初めてテレポで高遠くんを転送したときに、嫌だ嫌だとジタバタする手足が一瞬だけ遅れて転送されたように見えたことよ」
「あのときは、相馬博士を心底恨みました…。失敗したら死ぬどころか、この世から消失していましたよ…」
「それから、小型のドローンや、小さな虫で実験を重ねたところ、速度に比例して、転送されるまでの時間も長くなったわ。物質の状態はそのままで時間を超えて未来へと転送されたということね。理論上、転送される物質の速度が高ければ、その分、時間跳躍の『距離』も伸びる。そこで、アキさん。あなたの『加速力』の出番よ」
「待ってください。理屈はなんとなく理解できたんですけど、こんな狭いカプセルの中じゃ走れませんよ…、私」
「大丈夫よ。これは量子テレポーテーション装置。時空転送しょ…装置は、これとはまた別のものだから」
 そう言って、ショーコはモニターやら大型コンピュータの奥にある扉の前にアキを案内した。扉は強化ガラスで出来ており、中を見渡すことが出来た。
 扉の向こうは、長いトンネルになっていた。
「これが、『時空転送装置』よ!」
 珍しく、サ行を噛まずに、ババンと紹介するショーコ。
「仕組みとしては、量子テレポ用のカプセルをながーく引き伸ばしたものね。トンネルは全長10キロメートルあるわ。天道アキさん、あなたには、このトンネルを|『加速』して《はしって》ほしいの」